【寄稿№12】センチメンタルジャーニー | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№12】センチメンタルジャーニー




    <2022.7.22寄稿>                        寄稿者 Namja Barwa

    2022年2月某日 千葉県南房総市富浦町 午前6時
     
    旧友オフイスランディック齋藤社長に所用がありコロナの影響で、ただでさえ重くなった腰を上げ、久々に上京するため早朝JR富浦駅へ向かった。
    2016年2月妻と私も共に体調を悪くして私の生まれ故郷の南房総のこの地にほぼ60年ぶりにUターンしてきた。
    温暖な気候、標高こそ低いが緑深い山々、穏やかな海、遥かに富士、三浦、伊豆半島などを望む豊かな自然は昔に少しも変わらねど街の様子、そこに暮らす人々、想像はしていたものの全くの様変わりして、浦島太郎状態になってしまって、まさに「故郷の廃家」の歌詞のごとくである。
    幸い我が家は駅近でJR、高速バス、路線バスも利用でき、近くにドラッグストアもあり、日々の暮らしには困らないものの、国道沿いの商店街はほとんどの商店が廃業しており、知る限りでは古くからのパン屋(和菓子)が1軒残るだけで、とても商店街とは言えるようなものではない寂しい街並みとなってしまっている。
    特に困るのは来客があって新鮮でおいしい魚料理を期待されても寿司屋、魚料理屋、何より魚屋すらないというありさまである。またこの地域の中心的な都市である館山も全国区的なショッピングモール、大型のロードサイド店舗が進出して以来古くからの商店街はシャッター商店街となってしまっている。
    そんな中で私の幼い時はまだ稼働はしていたものの既に老朽化していて今はほぼ朽ち果てているような桟橋が映画やCM他によくつかわれて観光地化しているのは皮肉なことである。
    さらに一昨年の台風15号でこの地区は我が家も含めて非常に大きな被害を受け、その後新築、リホームされ真新しい家が目立つ半面、再建をあきらめこの町を出ていく人もあり歯抜けの様な空き地も目立つようになった。
    丘の上から見下ろす時何か往時の様な賑やかな商店街、多くの若い人、幼い子供たち、夏の避暑客の賑わいを取り戻すことは出来ないのだろうかと思わずにはいられない。
    特に戦後あたかも合理的に見える大都市一極集中化が一層すすむ中で地方の活性化も長い間叫ばれ国も地方自治体も企業誘致、箱モノ整備に注力して観光、外国人によるインバウンド期待などいろいろと対策を打ち出してはいるものの一時的に活性化はされても根本的な解決には至っていない。
    もちろん私などの才能なしの凡人には思いもつかないが、もっと別次元のアイディア、改革が必要なのかもしれない。

    江東区北砂町

    早朝JR富浦駅を立ち、約束の時間までたっぷりと余裕を見ていたのでリタイヤして以来ほぼ10年ぶりに地下鉄東西線の各駅停車に乗った。
    そして西葛西を過ぎて南砂町の駅名を見て思い立ったように降り立ってしまった。
    砂町は小、中学校と過ごした懐かしい街だから、ちなみに私の出身中学校は地下鉄を出たすぐそばに今でもある。
    出口を出ると当然ながら街の様子は大きく変貌していてかつて住んでいた北砂町1丁目に行く道も定かでなく、ようやく昔の都電通り(明治通り)を見つけて砂町銀座の入口にたどりつけた。
    もちろんこの周辺も明治通り沿いにあった映画館、パチンコ屋などはとうになく当時の賑わいはないものの砂町銀座は今でも670m、180店舗もあるそうでいまだに昔の雰囲気を色濃く残していたのは本当に嬉しかった。
    私見だがここは昔は国鉄沿線から遠く離れ都電だけが通勤、通学の足だった陸の孤島の様な街でそれゆえこうして生き残っているのではないか、そういえば横浜市内にも旧市電沿いに古い商店街が残っているのもなんとなく合点が行く。
    そして明治通りを砂町銀座と反対に曲がって行き貨物線のガードをくぐってゆくと、かつて住んでいた北砂1丁目に入るとすぐに高層の大型マンションが建ち様変わりしていたが貨物線の築堤が当時をしのばせた、
    幼い日ここで月光仮面や怪傑黒頭巾になったり三角ベースで野球したり上は中学生から下は未就学の児童まで一緒になって遊びまくったものである。そして1958年ころこの築堤に上がって日に日に上に伸びていく東京タワー(まさに3丁目の夕日の映画の映像そのもの)の竣工を楽しみにしていたのにタワーに上ることはいまだ果たせていない。
    このころはまだ東京も高層の建物も少なく一時中止となっていた隅田川の花火も近くの橋の上からよく見えたものだった。
    この築堤の思い出をもう一つ。同じころのある日この上に見たことも無い斬新なスタイルの列車が止まっていて子供たちが騒いでいるとそばにいた方が(今思うと旧国鉄職員か汽車製造の方と思われる)「乗りたいか」と聞かれ大喜びで乗せていただきその素晴らしさに感動したものだった。ずっと後になって旧国鉄のビジネス特急こだま151系でおそらく国鉄に納車される途中と思われいち早く乗車した一般人になった。
    また懐かしいものに屋台のおでん、お好み焼き(広島風に近いもの)、ポン菓子、アイス、紙芝居、そしてもんじゃ(今の月島などのものとは全く違いうすーい小麦粉の生地に僅かなキャベツが入っているだけの貧しかったわたしでもいかにも貧乏くさいお世辞にもおいしいとは言えない食べ物で皆でワイワイ言って焼くのが楽しかったようだ)これらが私の食べ物の原点である。
    この町も変っていてもこの一角は昔の雰囲気が残っているような気がして当時を思い起こさせてくれた。
    もう訪れることはないかもしれないと思いながら後ろ髪をひかれる思いで懐かしい街を後にした。

    新橋~虎ノ門

    砂町に思い立って訪れた同じ日の午後、所用を済ませた帰りに新橋に立ち寄った。
    特に用事があったわけではないが砂町に行った余韻で懐かしさの余り途中下車したくなった。というのは新橋は私の社会人としての出発点だからである。
    1971年5月、ある建設会社に入社して研修を終え配属先の日比谷通りに面した自社が施工したまだ新しいH観光会社のビルの1階の自動ドアを入った時の複雑な思いは今でも忘れられない。ちなみに今はおじさんのビルと揶揄されているニュー新橋ビルもまさに竣工まじかで当時としては斬新な建物であった。
    そしてショックなのはあの真新しかったあのH社ビルが既になく新しい建物となっていたことで本当に時の流れを感じさせられたことである。
    それから約10分ほど歩き虎ノ門にあった古い本社ビルに足をむけた。昔からマッカーサー通りの都市計画があったので承知はしていたものの再開発という面開発は周辺全体を根こそぎ変えてしまって面影や、においすら残っておらず感傷に浸る余地すらなかった。
    東京の街はまだ寺社仏閣、大名屋敷跡等江戸の名残さえ残っているが、古い駅前などの街は再開発によってより美しい(?)、安全な構築物となり、そこには決まった様にこじゃれた居酒屋、カフェ、ファストフード店がテナントとして入りどこもこぎれいで、防災的にも優れているけれどあまりにも画一的な街並みは私の様な昭和前半人間には少しさみしい気がするけれどこの中で生まれ育ってゆく子供たち、若者にとってはこれが原風景となるわけで、年老いた彼らがおそらく今より激しく変化してゆくだろう大東京の変わりゆく姿をみてどんな感慨をもつのだろうか想像もつかない。
    本当に久しぶりに懐かしい街を歩いて私の小さなセンチメンタルジャーニーは夕暮れとともに終わった。


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