​​​​​​​【寄稿№6】満州国首都に唯一のフランス建築―タンタンの「青い蓮」  | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • ​​​​​​​【寄稿№6】満州国首都に唯一のフランス建築―タンタンの「青い蓮」 




    <2022.7.1寄稿>                           寄稿者 たぬきち
    中国東北地方の長春に残るただ一つのフランス建築は、「偽満(ぎまん=偽りの満州国)首都新京」外務省庁舎である。パリバ銀行(本拠ブリュッセル)傘下の建設会社ブロサール・モパンが、日仏合弁で設計・施工。建国はビジネスチャンスと、フランスから3勢力が斡旋人を通じ、全国交通網・都市整備計画を売り込むが、関東軍の小磯国昭参謀長は外債案を一蹴、これのみとなった(越澤明「満州国の首都計画」ちくま学芸文庫)。

    「タンタン アメリカへ」連載中、あこがれのアルベール・ロンドル記者を失ったエルジェは、大記者最後の旅を追いかけようと決意(「ファラオの葉巻」冒頭、上海往復の航路地図)。北斎の「神奈川沖」をまねるなど(モノクロ版では、タンタンが「蝶々夫人」を歌う)、ロンドル記者が第1回目の中国旅行(1922年)を日本から始め、親日的だったことを意識。

    だが、続編「青い蓮」では、中国の街並みに、「日貨排斥」、「打倒帝国主義」、「不平等条約廃止」のスローガン(国民党でなく共産党のものというが、蒋介石も喜び、エルジェを中国に招待しようとした)、タンタンが長江の洪水でチャン少年を助ける湖口(ここう)は、毛沢東の「瑞金(ずいきん)ソビエト」ができた江西省と、リアルタイム作品に変身。ベルギーの保守カトリック系新聞は、フランス同様、日本寄りだったから、それにさからうものとなった。

    在ブリュッセル日本大使館はベルギー政府に抗議、亡きアルベール1世の親友にして高等中国研究所長のラウル・ポントゥス将軍(日白協会副会長でもあり、「日本」の著者)が同紙を訪問、説得したが、エルジェは不動。エルジェに中国の現状をアドバイスし、作画にも協力した美術留学生で、チャン少年(「タンタン チベットをゆく」に再登場)のモデル張仲仁の存在と、「ロンドル記者は、日本軍のアヘン密売を調査し、暗殺された」という風聞も影響。

    悪役「ミツヒラト」は、奉天特務機関長などをつとめ、天津の日本租界に隠棲していた廃帝溥儀を満州国執政に担ぎ出した土肥原賢二大佐(当時)がモデルとされる。またエルジェは、仏誌「クラポイヨ(ヒキガエル=塹壕兵)」1934年2月号のアンドレ・ヴィオリス記者「日本の帝国主義は世界に脅威」を読んだ。彼女は、第1次上海事変中にフランス租界で入院、帰国乗船前のロンドルが見舞った最後の人物。

    ポントゥス将軍は、「日本は、アジアの憲兵(gendarme asiatiqueジャンダルム・アジアティク)」だという。中国の混乱を鎮め、共産主義に対抗する日本は、ベルギーの友邦。フランスも同じで、保守系紙「フィガロ」1931年12月11日(満州事変の年)は、「仏領インドシナ植民地を守り、ソビエトを無力化するために」、日仏「東西の憲兵」間の協力必須としている。
    ソビエト側も、1932年5月、コミンテルン(国際共産党)機関紙「インプレコール」で、フィンランド出身の執行委員会書記オットー・クーシネンが、「日本共産党の任務に関するテーゼ(32年テーゼ)」を発表。フランスと日本「二人の憲兵」に言及。日本が「東の憲兵」と呼ばれるようになったのは、1900年の「義和団事件」以来で、「青い蓮」のチャンの祖父母は、このとき殺された。

    そもそも一人の暗殺に、千名近い乗客乗員がいる船へ放火するなどあるだろうか。第2次大戦後の1948年、蒋介石の代理で渡米した馮玉祥(ひょう・ぎょくしょう)元帥(土肥原大佐とはかり、溥儀を説得)は、蒋批判演説を行い、帰路はソビエト船ポベダ号でニューヨークからオデッサ(オデーサ)に向かい、スターリンと会談予定(スターリンは、毛沢東より馮を気に入っていた)。
    粛清対象で帰国命令が出たソ連外交官や、廃止されたNYソ連学校関係者などが乗船していたが、オデッサの手前で出火・漂流。彼を含め、多数が死亡。映画フィルムの発火事故、CIAの謀略、そして将軍暗殺と、謎のままである。ポベダ号は修復され、キューバ危機(1962年)でソ連の兵士と武器をキューバに運んだ。

    なぜ関東軍は、フランス借款をかたくなに拒絶したのか。斡旋人の一人ピエール・リョウテイ記者(ユベール・リョウテイ元帥の甥)は、日本はどうやって広大な満州の経費をまかなうつもりかと、疑問をもらしている(「中国か日本か」1933年)。
    フランスには帝政ロシアに融資・建設したシベリア鉄道支線の東清鉄道を、ソ連と日本から取り戻したい意向があり、日本は警戒していた。また、当時の日本人には、幕末の勘定奉行小栗忠順(ただまさ)のフランス借款のせいで、日本は植民地になるところだったと信じる者が多かった。


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