【寄稿№5】 タテとヨコの街 ― 「タンタンの冒険」のモデル記者 | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№5】 タテとヨコの街 ― 「タンタンの冒険」のモデル記者




    <2022.6.21寄稿>                          寄稿者 たぬきち
    2022年5月、フランスの作家ルイ=フェルディナン・セリーヌ(1961年没)の失われた未発表原稿群が発見され、まず、「戦争」が出版された。第2次大戦後、ナチス協力者のそしりを受け、自宅を暴徒が襲い、奪われたものだった。
    既存作品の邦訳「夜の果てへの旅(上)」中公文庫1978年(生田耕作)では、ヨーロッパとアメリカの建物そして風景の違いを、タテ・ヨコで表現。
    「彼らの街は、立っていたのだ、完全にまっすぐに。ニューヨーク、これは、突っ立った街だ」。「だが、ヨーロッパでは、そうだろう、そいつは、街は寝そべっている」。
    エルジェ作「タンタン アメリカへ」(1932年)でも、シカゴでタンタンが泊まるホテルの部屋は、超高層=摩天楼(まてんろう)37階で、目のくらむ高さの窓枠にへばりつかねばならない(マイクル・ファー著 小野耕世訳「タンタンの冒険 その夢と現実」サンライズ2002年)。

    1929年、ベルギーの保守カトリック系新聞「20世紀」の若い製図技師ジョルジュ・レミは、週間付録「こども20世紀」に、少年記者が主人公のマンガを連載するよう、発行人ワレ(ワレス)神父に命じられた。エルジェ「タンタンの冒険」シリーズ誕生(川口恵子訳・福音館書店)。愛犬の名スノーウィ(フランス名ミルー:白雪)は、初恋の女性の愛称だった。
    第1作「タンタン ソビエトへ」はワレ神父の指示で、参考資料に、元ロシア駐在ベルギー領事ジョセフ・ドゥイエ執筆「ベールなしのモスクワ」(1928年)を手渡された。1929年は、スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキー追放年でもあり、ドゥイエ本の反ボルシェビキ・エピソードを忠実に再現している(モノクロのままだったが、2017年カラー化)。

    1930年には、「こども20世紀」紙のタンタン記者とスノーウィがソビエトから戻り、ブリュッセル北駅に降り立つ歓迎行事が催された。こども達は、タンタン実在を信じていたのだった。
    エルジェ自身も、自分は旅行記者だと想定していた(ちっとも、旅しないのだが)。1920年に、フランス新聞「エクセルシオール」のアルベール・ロンドル記者が書いた連載記事「ソビエトのロシアで」を大切にしており、これで未知の国のイメージを把えることができた。世界を股にかけ、縦横無尽に筆を振るうフランス屈指の大記者に、エルジェはあこがれていた。

    ワレ神父の話では、アフリカに渡るベルギー人の若者が減り、植民地政府は人手不足。そこで若年層に関心を持ってもらえるよう、次のタンタンは「寒い国」から「暑い国」にしたいという。エルジェの手元には、ロンドル記者の1928年「プチ・パリジャン」紙連載「アフリカ黒人の間で4か月」と、それを単行本にした「黒檀(こくたん)の大地」があった。
    フランス領セネガルとコンゴ間の鉄道建設における現地労働者のひどい扱いを見て、母国の植民地大臣に公開質問を突きつけた問題作で、「フランスは、ベルギー領コンゴみたいに植民地経営をうまくやれていない」という。第2作「タンタンのコンゴ探検」(1931年)は、これを下敷きにしている。

    次の舞台は、エルジェ自身が希望した(「タンタン アメリカへ」1932年)。ミッキー・マウスも1928年生まれ、ウォルト・ディズニーにあこがれていた。せりふを吹き出しに書き込むのも、アメコミ流。米国では、ネイティブ・アメリカンの描写、ギャングと飲酒が問題とされた。
    連載中の1932年5月、ロンドル記者は、中国取材の帰途、紅海で遭難死する。船舶火災の救助船がソビエトのタンカーだったから、下手人はボルシェビキに違いない。いや満州国の建国直後で、日本軍の仕業だと、左右意見が分かれた。

    エルジェは終生、ロンドル記者の足跡を気にかけ、「ファラオの葉巻」、「青い蓮」、「かけた耳」、「オトカル王の杖」、「金のはさみのカニ」、「なぞのユニコーン号」、「レッド・ラッカムの宝」、「燃える水の国」、「紅海のサメ」といった多くの作品中に、この大記者へのオマージュが散りばめられている。
    冒頭のセリーヌ同様、エルジェも協力者疑いをかけられ、1983年没後には、「コンゴ探検」は人種差別と訴えられた。2012年12月、ブリュッセル高裁は、当時の環境下でのステレオタイプの表現にすぎず、差別を意図した作品ではないとした。

    そもそもベルギー領コンゴは、1885年から1908年まで、国王レオポルド2世の私有財産で、苛斂誅求(かれん・ちゅうきゅう)を極めたのを、国が買い取ったものだった。2022年6月、フィリップ国王が旧植民地コンゴ民主共和国(旧ザイール)の首都キンシャサ訪問、遺憾の意を表明した(AFP)。

     


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