【寄稿№16】ポール・ドゥメール大統領の暗殺 | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

TOP読者投稿コラム一覧>【寄稿№16】ポール・ドゥメール大統領の暗殺

  • 【寄稿№16】ポール・ドゥメール大統領の暗殺




    <2022.8.19寄稿>                          寄稿者 たぬきち 
    パリのサンテ刑務所は、繁華なモンマルトルの東南に位置し、高層ビルの谷間で放射状に棟を伸ばしている。病院(メゾン・ド・ラ・サンテ)跡地に建てられたため、施設にも通りにもこの名が残った。
    1939年まで、死刑執行は公開であり、刑務所の外のサンテ通りとアラゴ通りの歩道の角に断頭台(ギロチン)が立てられた。ギロチンは組み立て式で、薄暗い夜明けに処刑人(ムッシュ・ド・パリ)が刃を落とし、ふたたび解体して運び去る(佐々木善郎 訳「ファントマ」ハヤカワ文庫に、詳細な説明)。

    1981年、死刑が廃止されたため、130人が死亡した2015年11月「バタクラン劇場襲撃事件(パリ同時多発テロ)」では、2022年6月29日、実行犯グループ唯一の生存者とされるサラ・アブデスラム被告は、仮釈放・刑期短縮・減刑なしの「完全終身刑」を言渡された。

    1932年5月6日、ポール・ドゥメール大統領は、「戦闘員作家協会」(従軍経験者ペン団体)の慈善イベントに出席したところ、元白衛軍(はくえいぐん)将校で亡命ロシア人医師パウル・ゴルギュロフに至近距離から銃撃され、5月7日早朝に死去。
    12日に国葬がとり行われたが、「プチ・パリジャン」紙では、翌13日その盛大な模様を写真入りで報じ、14日の紙面はその続報とともに、米国でのリンドバーグ愛児誘拐事件の悲しい結果として、ジュニアの遺体発見ニュース。15日、ゴルギュロフの取調べの様子。そして16日には、日本の犬養毅首相暗殺の第1報(五・一五事件)。17日には、東京発の詳報とアデン湾でのジョルジュ・フィリッパー号火災遭難ニュースが並ぶ。

    国際連盟「ナンセン国際難民事務所」(ナンセンは、1930年死去)が発行した「ナンセン・パスポート」でフランスに入国した亡命者ゴルギュロフの犯行ということで、同事務所は、ウクライナ飢饉対応に追われる一方、パリから逐一報告を受け、新聞記事を収集している。
    「タンタン モスクワへ」の参考資料「ベールなしのモスクワ」の著者ドゥイエは、1925年までナンセン事務所委員もつとめ、在任時のハルキウやロシア南部の実状を記録した。

    事件当時フランスにいた作家の久生十蘭(ひさお じゅうらん)は、帰国後、短編小説「犂(カラスキー)氏の友情」を発表(「十蘭錬金術」河出文庫)。「私の田舎は、ドニエープル河のそばのザパロージェというところ」と、犯人が、ウクライナの「ザポリージャ・コサック(黒海コサック)」出身だとする。
    同コサックは、最後のロシア皇帝ニコライ2世の親衛隊をつとめたが、ソビエト革命に抵抗してザポリージャを追われ、東方移住を命じられた。残っていれば、銃殺かシベリア流刑で、「カラスキー」ことゴルギュロフの記憶だけに残された故郷である。

    「タンタン」の作者エルジェも、のちに「オトカル王の杖(つえ)」を出版(1940年)。王を殺すか、王権のあかしである王笏(おうしゃく=つえ)を盗めば、国を奪えるというものだが(アルベール・ロンドル記者の「コミタージ(バルカンの暗殺集団)」1931年も、作画に影響)、いまやフランスは共和制であり、大統領暗殺で国を奪うことはできない。

    けっきょく、一般犯罪の殺人事件として、1932年7月に裁判がはじまり、8月には死刑確定、9月14日朝、ゴルギュロフはギロチンにかけられた。多くの新聞が、法廷の様子、そして処刑の状況を詳細に報道した。
    犯行動機は、仏政府に対ソ軍事行動をうながすためというのだが、亡命ロシア人社会に衝撃を与え、「ゴルギュロフは、ソ連スパイ」と主張する者や、「われわれの潔白を証明するため」の自殺者まで出た。

    生前のゴルギュロフと親しく、「もうじき、ロシア人はフランスにおれなくなって、再亡命を余儀なくされる」と、予言を残して姿を消した「クバーニ・コサック」の元大佐がいた。謎のチェコの金主(きんしゅ=スポンサー)からの送金で遊び暮らしていたが、「アフリカに渡るというのは嘘で、暗殺を見届けロシアに戻ったに違いない」と噂された。彼が、黒幕だったのか。
    南ロシア「クバン」のコサック軍は、「ザポリージャ・コサック」と「カフカース・コサック」を併合したもので、第2次大戦では、ソ連とドイツ双方に分かれて戦った。

    もっと奇妙な話は、さる女管理人(コンシェルジュ)が、「ゴルギュロフはユージン・ボイエの友人で、大統領がボイエの恩赦を拒んだ復讐をした」というものである。ボイエは、老女強盗殺人でギロチンにかけられるところ、直前に大統領が死んだため、処刑は中止(生きていたら、考え直して恩赦を与えたかもしれないので、という)。
    次のルブラン大統領が恩赦を与え、ボイエは仏領ギアナに流刑になった(ロンドル記者が、その運用を非難した流刑地だが、まだ廃止されていない)。「ギロチンに最も近づいた男」ボイエは、そこで、有名な囚人アンリ・シャリエール(平井啓之訳「パピヨン」河出文庫の著者)と出会う。

    「白系ロシア人」の犯行なのに、なぜか当時のソ連では、報道してはならないとされた。外国人記者がスターリンに質問すると、スターリンは、「ノーコメント」と答えたという。実はフランスでは、スターリンにとって、もっと気がかりな問題が進行していた。それが、1932年6月に発覚する「ファントマス(日本では、ファントマ)」スパイ事件である。
    そもそもドゥメール大統領は、強硬な軍備増強派だった。1918年の大戦終結から14年しか経っておらず、フランスではどの家も戦死者を出したほどであったから、国民感情とは乖離(かいり)していた。台頭するナチスのドイツに対しても、宥和(ゆうわ)派が主流だった。だが彼が生きていれば、1940年の大敗北はなかったかもしれないとされる。


PAGETOP