【寄稿№18】本を開けば、心は「砂漠を越え、海を渡り」 | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№18】本を開けば、心は「砂漠を越え、海を渡り」




    <2022.9.2寄稿>                           寄稿者 たぬきち
    第一次大戦後、冒険小説「ケーニクスマルク」と「ラトランティード(アトランティス)」で作家の地位を確立したピエール・ブノアは、公務員をやめ、「ル・ジュルナル」紙の特派員としてトルコに。さる女性と挙式直前、踏み切れず、オリエント急行に飛び乗った。
    初代大統領ムスタファ・ケマルのインタビューを経て、現地フランス大使館情報部の秘密要員に採用される。軍人家庭に生まれながら、大戦で疾病除隊となったブノアは強いコンプレックスを抱き、国家奉仕に熱心だった。情報将校ジャック・ソーゼ中尉(当時)との出会いがあり、次作「レバノンのシャトレーヌ(女城主)」のフランス軍人のモデルに起用。
    ソーゼは大尉時代、満洲で本庄繁司令官に会い、関東軍のハルビン占領や満洲国の建国にも立ち会う。北平(北京)では、リットン調査団メンバーやアルベール・ロンドル記者と宴会(生前のロンドルに遭った最後の人物の一人)。

    ブノアは小説家と新聞記者を兼ねて世界を周遊する。北米を除き各地に足跡を残して記事を書き、必ず年1本の小説を発表。1926年、満洲では張作霖将軍に会い、白系ロシア人の運命を背景に、「真夜中の太陽」を上梓(じょうし=出版)。
    1931年、アカデミー・フランセーズ入りに続き、海外区選出の国会議員になろうと、インド行き船旅のチケットを購入したが、政界進出は断念し、ロンドル記者に切符を譲った。ロンドルは、帰路遭難死。

    ブノアは記者として、エチオピアでハイレ・セラシェ皇帝に会った後、イタリアのファシスト政治家ベニト・ムッソリーニにインタビューし、イタリア軍のエチオピア征服は困難と私見を述べる。ドゥーチェ(統領)は肩をすくめただけだった。ベルリンでアドルフ・ヒトラーに会いたいというと、フランス大使は、「総統は情緒不安定で、会っても意味がない。ナチ党大会に行けば、姿を見ることができる」と言った。ヘルマン・ゲーリング空軍元帥は、私邸で自慢の美術コレクションを披露しただけでなく、新型航空機の設計図まで見せてくれた。

    これらすべてが、解放と粛清で逆転。マキザール(フランスのレジスタンス)に逮捕され、半年後、ラバル元首相が処刑された同じフレンヌ刑務所を出所するも、2年間の出版禁止。
    1940年のフランス敗戦以降は、スペイン国境に近いバスクの別荘で、彼のせいで離婚したマルセルと二人暮らし。戦後の1947年出版「廃墟の鳥」は、古きよき田園風景と人々、近づく第一次大戦による滅びの予感を描く。同年、結婚したカップル(再婚の花嫁38歳、初婚の花婿60歳)は、アフリカや日本(1952年)へ向けて、旅を繰り返した。1959年、維新のころの日本を舞台に小説「フラマラン(日本へ行く侯爵の名)」出版(常に名前がAで始まるヒロインは、「あつこ」)。2度の日本旅行で訪れた地名や、著者による日本歴史の勉強ぶりがうかがえる。

    だがマルセルの胃癌が進行、入退院を繰り返すようになった。「日本の“奇跡の治療”」(何を指すか不明だが、この時期すでに、のちの“インターフェロン”も日本で発見されていた)も、彼女の癌には効かなかった。
    1960年1月4日夕方7時、自宅の電話が鳴り、電報が伝えられた。3年前ノーベル賞を受賞したアルベール・カミユが自動車事故死。まだ46歳(この日が誕生日)、出身地アルジェリアの戦争に反対していた。死が押し寄せているようで、ブノアはよろめいた。

    4月、スイスでの終末医療のため、ローザンヌの医療センターに入院。引っ越し魔のジョルジュ・シムノン(「メグレ警視」の作者)は、この頃、近くに住んでおり、7歳の娘マリー=ジョーを連れ毎日のように二人を見舞った。マリーは、大切なウサギのぬいぐるみ「セルポレ(香草タイムの仲間)」をマルセルに譲った。
    死期が近づいたマルセルは、「フランスの家に戻って死にたい」と言い、ブノアは看護師と救急車、運転手を雇い、マルセルとセルポレとともに1,100キロの旅に出発。5月28日、レマン湖南のスイスとフランス国境が何度も入れ替わる山村を通過中、マルセルは彼の腕の中で息を引き取った。

    ブノアは、その場所にマルセルの記念碑建立を決意。当時はまだ、離婚歴ある女性の埋葬に教会は冷たく、それなら自分で大理石の十字架を路傍に建てようと思い立ったのだった。現地の自治体に希望はかなえられ、自費によることと、施行監督は地元の公共建設技師があたるものとされた。
    ブノアに会った技師は言った。「心をこめて造ります。あなたの小説の愛読者なんです。若いころ田舎で鬱々(うつうつ)としていても、本を開けば、私は駱駝(らくだ)の背中で砂漠を越え、豪華客船で海を渡り…」。
    1961年6月には、42作目の小説「死後の愛」出版。亡くなった妻、失われた幸福、病気、スイスの診療所、帰りの旅、すべてが込められている。ブノアはもはや生きる意欲を失ったようで、翌年3月3日死去。最後まで1年1冊をつらぬき原稿を残した(「アレトゥーサ(ギリシャ神話の妖精の名)」1963年)。

    1926年日本行きの際に結婚するつもりでいたルネ・ルフレールとは、旅行後に別れたが、彼が逮捕される1944年まで連絡は続いた。彼女は、南仏の高級リゾートホテル暮らしを続け、カジノに通い、ブノアに生活費を無心。そのたび彼は送金を怠らなかった。晩年のルフレールは、カジノの屋根裏部屋に住んで、英語本の翻訳で生活し、ゆとりのある時はカジノに出入りした。1963年5月、ホームレスの老女はカンヌの海を見下ろすベンチで死去。

     


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