【寄稿№23】革命現場に「ママン」が現れて   | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

TOP読者投稿コラム一覧>【寄稿№23】革命現場に「ママン」が現れて  

  • 【寄稿№23】革命現場に「ママン」が現れて  




    <2022.11.1寄稿>                                                                            寄稿者 たぬきち
    パリのブルジョワ家庭に生まれ、哲学を学んだレジス・ドブレは、1961年、キューバ初訪問。前年、サルトルとボーヴォワールがカストロとゲバラに会ったことに触発された。1963年には南米各地を巡り、カラカスで若い女性活動家エリザベス・ブルゴスと出会い、二人旅。これもまた、彼の尊敬する作家・政治家アンドレ・マルローが、第二次大戦前、妻と仏領インドシナを旅したのに似る。
    ドブレはキューバ革命を理想視する論文を発表。1965年25歳、カストロの招聘でハバナ大学の哲学教授に。カストロと議論をかさね、1967年、『革命の中の革命』(谷口侑 訳・晶文選書)出版。南米各国の独裁政権は、カストロがこの本で革命を輸出しようとしていると警戒。同年、ボリビアに潜伏したゲバラを追うが、政府軍に拘束される。
    ドブレの両親は、二人とも高名な弁護士だった。父ジョルジュは社交嫌いで、音楽と読書が趣味。母ジャニーヌは裕福なユダヤ系家族出身で、パリ市議会副議長(のち上院議員)として戦後のパリ復興に努め、女優シモーヌ・シニョレ、イブ・モンタン、クリスチャン・ディオール、ピエール・カルダンと親しい。
    ハバナで哲学を教えているはずの息子がボリビアでゲリラ容疑と知り、ジャニーヌは、ド・ゴール大統領、ローマ教皇パウロ6世、国際赤十字、サルトルに救援要請。単身キューバ経由ボリビア入りし、独房の息子と面談(『ボリビアのチェ、資料集』ラパス2019年[西語]には、憮然とした母子の写真付きで、短い解説:彼の母親であるジャニーヌ・アレクサンドル・ドブレ夫人は、息子の自由を求めて5月6日にボリビアに到着し、彼が理想主義者であり、わが国で説明されたようなゲリラではないと保証した)。
    「うちの子にかぎって…」と、ありきたりのセリフを吐いたため、当初フランスでは、「ブルジョワ息子の革命騒動」などと報道された。そのうち、サルトルによる救援委員会に賛同が集まる。軍事法廷で30年の刑を言い渡されたドブレは、4年後の1970年末、独裁者バリエントス将軍の事故死で恩赦出獄。チリに送られ、アジェンデ大統領のもとで、「非軍事革命」を学んだ。ボリビアで元SS将校クラウス・バルビーの存在が明らかになり、誘拐を企てるが、1973年、ピノチェト将軍によるクーデターで帰国。
    『革命の中の革命』の影響で、南米各地で数千人の犠牲が出たとも。また同書は、ヨーロッパでも暴力革命を意欲させ、のちのドイツ赤軍創設メンバーであるアンドレアス・バーダーやグドルン・エンスリンは、仏側協力者のあっせんで、不在のドブレのパリのアパートに潜伏していたこともあった。
    帰国したドブレは、ソ連の武器援助に頼る反米運動を反省。フランスの使命は、米ソ間に第三勢力を築くことにあるとして、1981年、フランソワ・オランド大統領(社会党)の外交顧問に就任。ド・ゴール大統領側近のマルローが、文化担当大臣など歴任したことを想起させる(ドブレのマルロー信仰は徹底していて、娘にマルローの娘の名を付けようとしたほど)。
    1991年、「ライシテ」(政教分離)問題で、公教育現場でのイスラムのスカーフ禁止立法に貢献。いまこの問題は、イランで抗議活動の原因になっているが、スカーフ着用をやめない児童を退校にするなど、かえって人種差別を生むこともあった。
    1979年3月、テヘランを訪問した「女性の権利国際委員会」代表団は、ホメイニ会見にスカーフが必要と告げられ、パリのボーヴォワール議長は拒否を指示。革命前、二人はフランスで会っているが、そのときはどうしたのだろう。彼女は、学生時代に髪を切って失敗したとき以来の習慣で、いつも頭にターバンを巻いていた(ウィノック『知識人の時代』塚原ほか訳 紀伊國屋書店)から、問題なかったか。
    2001年、スウェーデンのテレビがドブレを取材。ボリビアでドブレと同時に釈放され、スウェーデンに亡命したアルゼンチン出身の画家チロ・ブストス(2017年没)の番組。二人の裁判中に殺害されたゲバラの居場所を、どちらが自白したのかという。ドブレは、「当時のことは記憶にない、その画家のことも覚えていない」と答えた。彼の娘ロラン・ドブレは、彼女の著書『革命家の娘』(仏語、2017年)で、ブストスが「ゲリラのメンバーの似顔絵まで描いて政府軍に協力した」と主張。一方、ゲバラの娘アレイダは、「ドブレの裏切りで父が殺された」と非難したという。
    2013年、ドブレは、ジョセフィン・ベーカーの「パンテオン」(フランスの偉人の霊廟)入りを提言。米国生まれの彼女は、第一次大戦後パリで「黒い踊り子」として一世を風靡(ふうび)。フランス人男性と結婚し国籍取得。ド・ゴール将軍の自由フランス軍に協力、勲章を授与される。1954年に来日、戦前に親しくなった元外交官夫人沢田美喜が運営するエリザベス・サンダース・ホームを訪問。ここから二人の男児を養子にし、人種の異なる子供達12人の「虹の部族」を立ち上げ養育。1966年、ハバナで開催された「3大陸サミット」に招かれ、ドブレとも知り合う。2021年11月、エマニュエル・マクロン大統領により、パンテオン入りが実現。
    マクロン大統領は、第一次大戦の記念式典で、ペタン元帥の功績をたたえた。かつてド・ゴール大統領も、同じ趣旨の演説をした。そして両者とも、第二次大戦下ヴィシー政府の長をたたえるとは、と批判された。ジョセフィン・ベーカーのドブレと、『革命の中の革命』のドブレ。人の評価は、どのように定まるのか。ドブレは、母親のことを尋ねられると、「死んだふり」をするという(リベラシオン 1996年4月27日[仏語])。


PAGETOP