【寄稿№24】アンドレ・マルローの「オートフィクション」 | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№24】アンドレ・マルローの「オートフィクション」




    <2022.11.15寄稿>                                                                            寄稿者 たぬきち
    ボリビアでチェ・ゲバラと行動をともにした作家レジス・ドブレが、1973年、チリから帰国したとき、ド・ゴール元大統領は3年前亡くなっていた。ド・ゴール政権下の閣僚でもあったアンドレ・マルローも、帰国3年後1976年死去。ドブレは、「行動する作家」マルローの範にならったつもりだが、生まれるのが遅すぎた(マルローは1901年生、ドブレは1940年生)。
    1960年自動車事故死したアルベール・カミユ(1913年生)は、故郷アルジェリアでの青年時代から、マルローと文通。許しを得てその作品を戯曲化し、舞台上演。レジスタンス時代には、マルローが活動中死亡したらしいと気遣う記事を、秘密出版の「コンバ」紙に掲載するなど、カミユこそ、同時代の先輩マルローの背中を追っていた(オリヴィエ・トッド『アルベール・カミユ<ある一生>上・下』有田=稲田 訳 毎日新聞社)。
    マルローは、1936年勃発したスペイン内戦では、左派の共和国政府のため航空隊を組織。みずから飛行隊長として、革のブルゾンのパイロット姿は左翼青年のあこがれだった。1940年、第二次大戦では戦車隊を率いて戦い、ドイツ軍捕虜となるも脱走。1943年、有名なレジスタンス活動家ジャン・ムーランが、クラウス・バルビーSS大尉に逮捕され死亡後は、その遺志を継いだ。1944年、アルザス=ロレーヌ旅団を指揮する英雄として、「大佐の5本筋の金モールの入ったベレー帽をかぶり、タバコを手に」して姿を現す。
    1920年代から、仏領インドシナ冒険の旅(石像盗掘で裁判沙汰)と中国革命への関与でベストセラー3部作『征服者』『王道』『人間の条件』。戦後はド・ゴール将軍の知恵袋にして閣僚。フランス作家人気ナンバーワン。「フランスに男は二人しかいない、それは自分とド・ゴールだ」(村松剛『評伝 アンドレ・マルロー』新潮選書)と自称(マッチョな時代表現)。
    早くから「自己神話化」が過ぎると指摘され、マルロー自身、それに答える意味もあって、1967年、『反回想録(上・下)』(竹本忠雄 訳 新潮社)を出版。もっとも、「序言 なぜ反回想録(アンチメモワール)か?」として、「精神とフィクションの混沌たる領域につねに生き…」という。『人間の条件』(小松清 訳)中の架空人物クラピック男爵(マルローの分身:作中で自らの人生を、「真でも嘘でもなく、実際の経験だった」という。)が、ここで再登場するのだから、本書も自伝ではない。
    「『征服者』は1925年の広東の暴動の物語であり、『人間の条件』はその2年後、1927年の、上海の騒動が素材である。マルロオはそれらの事件の渦中にいたように思われていた。ところがマルロオは、1931年まで、広東にも上海にも行ったことがない」(村松剛『評伝 アンドレ・マルロー』新潮選書)。
    これらの著作は、「オートフィクション(自伝的虚構)」のジャンルに属する文学作品なのである。女性が生涯を通じて遭遇する出来事を描き続け、2022年ノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーの作品(『嫉妬/事件』堀=菊池 訳 ハヤカワepi文庫など)も「オートフィクション」とされるが、彼女自身は、「この言葉が生まれた1977年以前から執筆している」から、自作はこの分野に属さないという。
    だが例えば、ルイ=フェルディナン・セリーヌ『城から城へ』(1957年)で、作者は大戦末期、ペタン政権のラヴァル元首相とドイツのジグマリンゲンに亡命。求められ青酸カリを渡したという(セリーヌの本業は医師。1945年ラヴァルが処刑前に服毒したシアン化合物は、古くて効き目が弱かった)。また、小松清「ホー・チミンに会うの記」(朝日評論1950年3月号)は、北ベトナム首脳として再会したホー・チ・ミンは、戦前パリで親しかったグエン・アイクォックではないという(1932年、英香港警察に逮捕され、結核で獄中死とも亡命とも)。どちらも1977年以前の「オートフィクション」か。
    1996 年、マルローの遺灰がパンテオンに移された。これを機にマルローの新たな伝記執筆にとりかかったオリヴィエ・トッドは、「神話」の大部分が事実でないという(『アンドレ・マルロー<ある一生>』仏語2001年)。マルローは、飛行機を操縦できず、戦車で戦ったのは父親の第一次大戦の話。ゲシュタポ刑務所とも無縁、終戦直前に自由フランス軍入りして初めてレジスタンス。戦後は、小説よりも美術論を書いたが、発展途上国の美術品故買業者でもあった(当時は犯罪でない)。
    引退したド・ゴールをたずね、夕食後二人きりで夜を徹して語り明かし、辞去する際、ド・ゴールが「宵の明星」を指さして…(『倒された樫の木』新庄嘉章 訳 新潮選書)という有名なエピソードも、実は元側近二人と昼食に招かれ、午後3時半に退出。同行者たちは「星は出てない」「文学だよ」。
    ドブレは、こうした事情は知りつつなおマルローを敬愛。1976年に生まれた娘の名をマルローの娘の「フロラン」にしたかった。名付け親シモーヌ・シニョレ(映画『影の軍隊』マチルダ役)と夫の歌手・俳優イヴ・モンタンは、考えなおすよう説得し「ロラン」に(『革命家の娘』仏語)。
    マルローは、18歳にして進学をあきらめ、高等教育を受けていない。広汎な歴史や美術の知識も独学による努力の賜物(たまもの)。パンテオン入りにいたる文化政策上の業績も、作品の評価も揺らがない。ドブレは、「でも嘘で真実を作るのは、詩人の仕事ではないですか?」というのだった(『現代の地下墓所』仏語2013年)。最初の妻クララによるマルロー評は、ひとこと「詐欺師!」(『われらの足音』第5巻 仏語1966年)。
    [追記] ウクライナで戦死した日本人義勇兵「ドブレ」氏の名の由来は、諸説あるようですが、レジス・ドブレも含まれているそうです。ご冥福をお祈りします。


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