【寄稿№37】わが友ロートレック | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№37】わが友ロートレック




    <2023.3.23寄稿>                           寄稿者 たぬきち
    第一次大戦中の1917年10月、ロシアでボルシェビキ革命が成功、「ソビエト共和国」となる(「ソ連=ソビエト連邦」成立は、1922年)。アルベール・ロンドル記者は、「ソ共和国」入りした最初のフランス人ジャーナリスト。フランス外務省(オルセー河岸Quai d’Orsay所在で、外務省そのものを “ケ・ドルセー” と呼ぶ)にロシア取材旅行計画書を提出し、支援を求めた。
    これに応じたフィリップ・ベルトロ政治商務局長は、親日の文人大使ポール・クローデルと同期。1920年春、ロンドル記者は「エクセルシオール」紙特派員として、革命3年目のロシアに向かう。そのリポートは、同5月(大正9年、日本のシベリア出兵で「尼港(にこう=シベリアのニコラエフスク)事件」が起きたころ)、同紙に連載された。
    ペトログラード(旧都サンクトペテルブルグ)は、飢えと恐怖の街と化していた。路上で馬が倒れると、すぐ切り分けられてしまう。モスクワも同じ様相、人々はバケツやボウルを手にスープの配給に行列し、注がれた中身をその場に立ったまま飲み干している。人民委員のクラシコフ(法務担当)は、「共産主義国家の完成は50年後、1970年になれば政府支給で衣食満ち足りる」と語った(ソ連崩壊は、1991年)。
    フィリップ・ベルトロは、1866年、当時フランスばかりか全ヨーロッパで名高い科学者の父マルセランと、スイスの時計商ブレゲ家の娘、母ソフィーの3男として生まれた(両親そろって、パンテオンに眠る)。マルセランは、『レ・ミゼラブル』の作者ビクトル・ユゴーや、『ボヴァリー夫人』のフローベール、フェミニスト作家ジュルジュ・サンドらとも親しい。
    フィリップの若い頃は放蕩無頼(ほうとう・ぶらい=遊び人の乱暴者)、極右の論客レオン・ドーデ、ユゴーの孫ジョルジュの3人で、パリの夜の街を闊歩(かっぽ=我が物顔にふるまう)。小説家マルセル・プルーストもサロン仲間。ピアニストのミシア・セールをモデルにした絵やキャバレーの踊り子のポスターで有名なトゥールーズ=ロートレックとも無二の親友で、画家が37歳で病死後、「フィガロ」紙1902年9月9日第1面に、1周忌追悼文を寄稿:「彼は小さくて醜く、逆説的で、あらゆる点で特異でした」、「あやしい日本の根付(ねつけ=ひも飾り)」、「非常に多くの恥辱、高貴な心」、「彼は、私たちのゴヤ(スペインの画家)」。
    ベルトロは、ロシアに資本を多くつぎ込んできたフランスは、中国ではイギリスに遅れをとっている、「外務省で、その舵取りをする」との大志を抱き、2年連続外交官試験で失敗。父マルセランは上院議員で公教育大臣をつとめたが、彼のために外務大臣を引受け、そのコネで入省。
    1902~4年(日露戦争前年)中国の領事館勤務。1903年4月、神戸へ。鉄道で、京都、横浜、東京、「アルマン公使は日本嫌いで、昆虫採集に専念している」。仙台、函館、札幌、旭川と、日本の軍事拠点を視察か。1か月余の旅を終え中国へ戻る。
    フランス帰国後、本省で場所を得たベルトロは、政治家をしのぐ能力を発揮。第一次大戦前夜、パリ駐在ドイツ大使フォン・シェーン男爵と戦争回避を話し合ったのも、彼だった。ポアンカレ大統領は閣僚を引き連れてロシア訪問、ベルトロが留守居役だったからである。「今日、わが国の対外政策を握っているのはベルトローだ」。ドイツ大使は、「ロシアにたいして熱心に態度緩和を勧告しつつあるという公式発表をして欲しいと申しでたものらしい。しかるにフランス政府は、ベルトゥローの意見に押されてこの申し出を受諾せず」。デュ=ガール『チボー家の人々 一九一四年夏Ⅱ』(山内義雄 訳・白水社)
    かつてロートレックのモデルをつとめたミシアは、開戦と聞くや、自分の運転手付き大型ベンツを救急車に改造、パリ防衛司令官の許可を得て、戦場から負傷兵をパリに連れ帰るため出動。同行した詩人ジャン・コクトーの『山師トマ』(河盛好蔵 訳・角川文庫)に活写されている。ジョッフル将軍の名を高めたマルヌ会戦で、パリのタクシーが列をなして兵士を急送したアイデアは、ベルトロもいたミシアのサロンでの誰かの発案だった。
    戦争省による軍事検閲の一方で、ベルトロは、「新聞会館(メゾン・ド・ラ・プレス)」を設立。こちらは米国向け広報中心で、芸術家や作家に仕事を与えるものだった。コクトーも、ここで働いた。(『評伝 ジャン・コクトー』(秋山和夫 訳・筑摩書房)
    外務省内でもベルトロは、文筆の才能ある者達を厚遇。ポール・クローデルはいうまでもなく、ポール・モラン、ジャン・ジロドー(小説『ベラ』で、ベルトロとポアンカレの確執を描いた。『世界文學全集 76 』 白井浩司 訳・講談社)、とりわけ、後継事務次官アレックス・レジェは、後にノーベル文学賞を受賞。
    大戦中ベルトロは、ボルドーに避難した政府と、軍との連絡役を担当、ジョッフル将軍やフォッシュ将軍と個人的な信頼関係を築いた。そして戦後はパリ講和会議の運営で、ウィルソン米大統領や、ロイド=ジョージ英首相と親しくなった。クレマンソーやポアンカレのような政治家は、公式発言しかできない。ベルトロは裏方ということで、外国首脳と「雑談」できたからである。
    1919年7月14日の戦勝記念パレードには、日本も参加。「こんな光景は、もう二度と見られないだろう。なぜなら、もう二度と戦争はないだろうから」。(サックス『屋根の上の牡牛の時代』岩崎力 訳・リブロポート)
    「ラ・デア・デ・デア(la der des ders)最後の最後の戦争」という言葉が流行した。「ル・デア・デ・デア(le der des ders)」となると、酒飲みの「これっきり、最後の一杯」のことだったが、復員兵士(ル・ポワユLe poilu “毛むくじゃら”、“ひげ面”)を意味。(ドルジュレス『戦争の溜息』山内義雄 訳・新潮社)
    ベルトロが事務次官に登りつめようとしていた1920年9月、「中国興業銀行」の信用不安説が流れる。この銀行は、1913年、フィリップの長兄アンドレ中心に、仏中合弁で設立。フランス系の「インドシナ銀行」が中国へも進出しており、列強の「合同借款団」も存在したが、それらの隙間を縫うように、パリで資金を集め中国の鉄道建設等に出融資。大戦後ドイツ系銀行が抜けた東欧や中欧、トルコでも、ケ・ドルセーの後押しで事業拡大。それが窓口を閉めたという(篠永宣孝「ベルトロ兄弟と中国興業銀行の創立」社会経済史学55巻3号)。
    ベルトロは、ベルギー系「パリバ銀行」総支配人オーラス・フィナリの協力を得て、「義和団の乱」(1900年)賠償金(中国は、1930年代初めまで支払い続けねばならなかった。ちなみに、ドイツ政府が「第一次大戦」賠償の残利息支払を終えたのは、2010年10月3日!)を使い、ケ・ドルセーが銀行支援の音頭をとると宣言。不安を打ち消すべく、独断で打った「外務大臣」名義の外電が失脚原因となる。銀行も兄アンドレを追放、規模を縮小し「中仏商工銀行」となった。(篠永『中国興業銀行の崩壊と再建』紀伊國屋書店)
    1922年3月、ベルトロは「停職」10年に(10年すれば定年)。フランスが関わるもう一つの「露亜銀行」問題が進行していた。前身は「露清銀行」で、フランス側はロシア経由でこの銀行に出資していた。同銀行は、シベリア鉄道の支線として北満州を走る「東清鉄道(東支鉄道or中東鉄道とも)」の建設と運営に深く関与。清国が倒れると「露亜銀行」となり、今度はロシア革命が起き国有化されたが、パリを本店とし、東清鉄道の運営に関与し続けた。だが、やがて白系ロシア人もフランス人も鉄道での地位を失うに至り、「露亜銀行」にも破綻が迫る。(麻田雅文『中東鉄道経営史』名古屋大学出版会)


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