【寄稿№38】ココ・シャネルのクリスマス・パーティー | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№38】ココ・シャネルのクリスマス・パーティー




    <2023.3.30寄稿>                            寄稿者 たぬきち
    作家ポール・モランが、ココ・シャネルにインタビューした「聞き書」冒頭で、モラン自身の「序」はいう:
    「1921年のクリスマス・イヴだったと思う。ミシアが言っていた、「あなたたち、みなシャネルのところに招待されているのよ」。「その晩ミシアは以後シャネルの生涯の友人になる連中を全員連れて来ていた。フィリップ・ベルトロ夫妻、エリック・サティ、リファール、オーリック、スゴンザック、リプシッツ、ブラック、リュク=アルベール。モロー、ラディゲ、セール、エリス・ジュアンドー、ピカソ、コクトー、そしてサンドラール」。(山田登世子 訳『シャネル 人生を語る』山田登世子 訳 中央公論新社)
    シャネルは翌1922年にも、ほぼ同様の顔ぶれでパーティーを主催。当時の芸術や文学の有名人達だが、ミシアやシャネルをはじめ参加者のだれもが、ベルトロの恩恵をこうむっていた。
    猫好きの作家コレットは、アフリカ植民地からベルトロに贈られたサーバルキャット(大山猫)をもらい、ベルトロに「殿様猫」あるいは「猫殿様」のあだ名を進呈。コレットは、「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」誌1920年1月3日から、新作『シェリ』の連載を始め、同年夏に単行本出版(工藤庸子 訳 岩波文庫 1994年)。中年女性と恋人の若者という、新時代を象徴する内容だった。

    1921年12月、日本に着いたアルベール・ロンドル「エクセルシオール」特派員は、高橋是清首相に独占インタビュー。日英同盟解消(いま、百年ぶり復活か)の感想など。翌1922年1月、第一次大戦の英雄ジョッフル将軍が、前年の摂政宮殿下訪欧の答礼使として訪日。かつてサン・シール士官学校で騎兵戦術を学んだ秋山好古将軍らに迎えられた。同2月、ポール・クローデル駐日大使の信任状捧呈式を取材。
    これだけ日仏間の行事が続くと、ロンドルの日本行きは、ベルトロの「お声掛かり」に思えてくる。ロンドルは、当時の日本が気に入ったようで、縁日を楽しみ、地震に驚き、「ここが私の暮らしたい所」、「他人の幸福をうらやむことのない人々」と記している。 Albert Londres, Au Japon, arlea 1933.
    次に中国では、満洲の奉天(瀋陽)で張作霖元帥にインタビュー。その後インドシナでは、あまりにも観光客然としていて、同植民地の深刻な現状から目をそむけていると批判された。
    1923年1月、ドイツが賠償債務を履行しないことに腹を立て、ポアンカレ首相は、ルール占領を命じた。ドイツの労働者は、大規模ストライキでこれに対抗。ベルトロは、ポアンカレが立ち往生するのは時間の問題と考えていた。停職中の彼は、パリの「狂騒の20年代」を楽しんでいた。今は、久しぶりの休暇のようなものである。1924年7月には、2度目のパリ・オリンピックがやって来る(前回は1900年で、パリ万国博覧会の添え物)。
    1925年、彼と相性の良いアリスティード・ブリアンが首相に返り咲くと、ベルトロも外務次官に復帰。二人して、ドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマンとルール問題を収拾。翌26年、ブリアンとシュトレーゼマンは「ノーベル平和賞」受賞。ブリアンの関心はヨーロッパにしかなかったが、同年、中国では、ソ連が「東清鉄道(中東鉄道)」の経営から中国人と白系ロシア人を追放し、フランスによる「露亜銀行」経由の鉄道経営権も消滅、「露亜銀行」は破綻。
    ベルトロが気がかりなのは、「中国興業銀行」を追われた長兄アンドレのこと。満洲の「東清鉄道」と「露亜銀行」に、フランスとアンドレの失地回復策はないものか。1927年、京都の関西日仏学館開設に末弟ルネが出席。次いで、父親の「マルセラン・ベルトロー生誕百年記念式」が、東京の日本工業倶楽部で開催され、ルネとともに、澁澤栄一みずから発起人出席。
    1931年、米国発の世界恐慌が、フランスにも遅れて影響。同年9月、満州事変が勃発。ベルトロの息がかかった人物達が、いっせいに中国へ向かう。サハラ縦断、中央アフリカ横断(ブラック・クルーズ)を経て、シトロエン探検隊の車列は、アジア横断の「イエロー・クルーズ」へ。いずれも英国の支配地域で、ベルトロの仏英友好関係なしには成立しない。揚子江を上下する砲艦乗り組み経験がある海軍士官ヴィクトール・ポワン(ベルトロの婚外子だが、養子扱い)は、本隊を新疆(しんきょう)まで迎えに行く2番隊を指揮。「同じテーマを2度取り上げない単線列車」を自負するロンドル記者も、上海経由で再び満洲へ。アルゼンチンの仏ユダヤ系富豪ラングウィラー夫妻も、大豆輸入会社設立のためとして記者に同行。これまた知人の情報将校ジャック・ソーゼ大尉も満州国建国記念式典へ。

    1932年5月、アンドレ・シトロエンは憔悴(しょうすい=悩みやつれ)していた。5年前の1927年5月には、米人飛行士チャールズ・リンドバーグが初の大西洋無着陸横断飛行に成功。「CITROEN」の電飾文字が輝くエッフェル塔に導かれ、パリのル・ブールジェ空港に着陸との印象を世界に与えることができ、シトロエン工場見学にも招待。同社の技術責任者ジョルジュ=マリ・ハールトと3人並んだ写真が、「プチ・パリジャン」紙に。
    1932年2月12日、探検隊が北京到着。ハールト隊長は上海での歓迎行事に出席、インフルエンザに感染し、3月16日、香港の病院で肺炎死。5月12日(米国時間)、誘拐され、シトロエンも心を痛めていたリンドバーグの愛児の遺体発見。
    5月16日、フランス郵船ジョルジュ・フィリッパー号がジブチ沖で火災を起こし沈没。同船で上海から戻る途中のロンドル記者は行方不明。25日、救助されたラングウィラー夫妻は、空路帰仏中イタリアの山岳地帯で墜落死。帰国したヴィクトール・ポワンは、心臓発作後に静養中のベルトロを見舞った後、自ら車を走らせ、カンヌのホテルで恋人の女優アリス・コセアと再開。8月8日、青年実業家の恋文を見つけたポワンは、船上パーティー中の豪華ヨットにディンギーで乗り付け、彼女の不実を大声で非難し、拳銃を口に咥えて発砲、海中に。ベルトロ夫妻ほか少人数の寂しい葬儀では、自死を理由に海軍の栄誉礼もなかった。秋の劇場シーズンに彼女が舞台復帰すると、海軍士官の仲間達が客席を占領し、「ポワン、ポワン!」と叫んで彼女を立ち往生させた(劇画3巻本がある)。ベルトロは、1933年2月、健康上の理由で引退、翌年11月死去。
    シトロエン社は、急激な事業拡張が祟って1934年に破綻。タイヤメーカーのミシュラン資本に。経営から退いたアンドレ・シトロエンは、翌年、失意のうち胃癌で死去。

    前モロッコ総督ユベール・リヨテ将軍の甥ピエール・リヨテ以下、仏ジャーナリストらは、満州国のために仏資本注入を仲介しようとしたが、小磯国昭参謀長(当時、のち首相)は拒否。ソ連から買い取った中東鉄道の権利にも、フランスの関与を認めなかった。
    『アルベール・ロンドルの死をめぐり』と題して、作家レジス・ドブレは上海の租界を舞台に戯曲を執筆(2008年)。アヘンを扱う中国の秘密結社や、ソ連スパイのドイツ人記者リヒアルト・ゾルゲも登場するが、そもそもインドシナ植民地はアヘン収益で運営されていたのだから、関東軍のアヘン問題など、仏側の関心事ではなかった。
    作家ピエール・ブノアとも親しかったソーゼ大尉によれば、満州国建国時のハルビンでは、白系ロシア人組織が関東軍の支援で「北進」し、シベリアに「プリ・アムール共和国」と「ザ・バイカル共和国」を打ち建てる計画の噂で持ちきりだったという。
    だが「北進」でなく、「南進」と決まった日本政府の方針を、当時の近衛文麿首相の側近であった尾崎秀美(大阪朝日記者として上海特派員当時、ソ連諜報網に参加)がゾルゲに告げ、スターリンを喜ばせた。

     


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