【寄稿№46】東京の最初の下町は中央区だった | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№46】東京の最初の下町は中央区だった




    <2023.6.16寄稿>                            寄稿者 MAC
    三代続けば、江戸っ子といわれている。明治45年生まれの粋な江戸っ子に四半世紀前に聞いた話で、戦前の足立、江戸川、葛飾エリアは、東京市外で下町ではなかったという。昭和の初期はまだそれらの地域は田畑で人口が少なかった。東京・下町の典型としては、映画『男はつらいよ』で渥美清が演じた寅さんによる、葛飾区柴又の住居・生活スタイルのイメージが強いせいもあるが、葛飾の人口が急激に増えるのは第二次大戦後のことだ。実は足立、江戸川、葛飾のエリアは新しい「下町」である。

    江戸時代の最初の下町は、現在の中央区(旧・日本橋区、京橋区)だった。
    日本橋には、魚市場や遊郭があり、両替屋、呉服屋、伝馬町には牢屋敷、馬喰町は馬市や馬場、八丁堀には町奉行、銀座には銀貨の鋳造所のほか、大工、桶、鍛冶、畳、紺屋、塗師などの御用職人町であり、江戸の中心地であった。
    東京の下町は、大正時代に「浅草、下谷(上野)、深川」、昭和初期に「荒川、向島」と東側に拡張、戦後「足立、江戸川、葛飾」と広がってきた。
    現在では、中央区はその名のとおり、東京のまんまん中(江戸っ子は、どまん中とはいわない)であるが、一時、人口のドーナツ化現象を起こしていた時期がある。中央区(日本橋区と京橋区の合計)の人口は1920年に27万人、1935年に26.1万人と、人口は江戸時代からあまり変化がなかったが、終戦時の1945年は7.6万人に急減。戦後のピークは高度経済成長が始まった1953年の17.2万人だが、その後オフィス街化が進んで居住者は郊外に引っ越し、通勤者がメインの街になった。1997年ころには中央区の人口は7.2万人ほどだった。

    1990年代に撮影でお世話になった写真事務所は東京・八重洲にあったが、そこは住居でもあり、戦前からの写真屋とはいえ、東京駅から歩いて5分ほどの所に住人が居ることに驚いたことがある(一軒家を商業ビルに建て替え、最上階に住んでいた)。
    現在は、佃島周辺などの工場跡地や晴海などに超高層マンションなどの大規模住宅の建設ラッシュで、70年ぶりに17.4万人を超え過去最多となった。東京の湾岸エリアがベッドタウン化したためである。

    ちなみに東京は、大雑把に分けると東側(総武線、東西線、都営新宿線、京成線沿線など)と西側(中央線、東急線、小田急線、京王線、西武線、東武東上線沿線など)で、下町と山の手側になる。海側の埋め立地は工場地帯として発展し、地方からの工場労働者人口が急激に増え、それに伴い商店街も発展した。一方、山の手といわれる古くからの地域には本郷、麹町、赤坂などに武家屋敷があった。高級住宅街の代名詞である大田区田園調布は、大正末期に元田園都市株式会社(現・東急電鉄と東急不動産)が計画的に開発した分譲宅地。もともとは武蔵野台地で、古墳群が残る丘陵地帯である。
    ちなみに縄文時代の六千年前は温暖化による「海進」で、埼玉県の低地沿いに川越市あたりまで海だった。縄文遺跡や古墳が丘陵にあるのは、今より海面や川の水位が高かったためだ。田園調布の先住民は、温暖で見晴らしのよい海辺に住んでいたことになる。もしかしたら現在の山の手といわれる地域は、縄文人が住んでいた高台と重なるのかもしれない。

    そのようなわけで中央区には江戸時代から続く老舗企業や飲食店も多いが、今やスキのないほどビルが立ち並び、もう下町風情を感じにくい。けれども製造業、卸、問屋が多い地域には、昔ならの居酒屋などが残っていたりする。東京24区の飲食店数の料理別ランキングをみると、寿司、天ぷらなどの和食店数が中央区はトップである。和食店が多い街は酒場文化も栄えている。東京下町と西部地域の居酒屋には特色や違いがあり、この話は別項で紹介したい。


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