【寄稿№50】モナコを買おうとした「死の商人」ザハロフ | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№50】モナコを買おうとした「死の商人」ザハロフ




    <2023.7.28 寄稿>                         寄稿者 たぬきち
    バジル・ザハロフ(1849-1936)は、世界で最も影響力のある武器商人にして、最も裕福な人物の一人。
    「欲しい人には武器を売りました。そのために、私はフランスではフランス人、ロシアではロシア人、ギリシャではギリシャ人というようになりました」。
    エルジェ『タンタンの冒険 かけた耳』(福音館書店)では、武器商人が将軍に、油田地帯を支配する武装を勧め、それから隣国に飛んで同じ武器を独裁者に売る。
    「丸い帽子、白いヤギひげ、杖、そして緑のコート。そのキャラクターは、彼の有名なモデルとまったく同じに見えます」。仏レゼコー紙。

    両親は、オスマン・トルコ帝国のユダヤ系ギリシャ人だが、迫害を逃れオデッサ(現ウクライナ)に移住。ギリシャ名「ザカリアス」をロシア風「ザハロフ」に。帰国後、バジルはギリシャ正教徒として生まれた。
    若いバジルは、叔父の布商人のもとで働くが、売り上げを持ち逃げしてイギリスに。1873年、叔父からロンドンの裁判所に訴えられるも、共同経営者として折半するはずの取り分だったと弁明し、釈放された。

    ロンドンを去ったザハロフは、アテネに行き、のちのギリシャ首相ステファノス・スコウリディスと出会う。1877年、スコウリディスの推薦でスウェーデンの兵器会社「ノルデンフェルト」のバルカン半島代理人に。
    ノルデンフェルトが発明した潜水艦1隻をギリシャに、敵対するトルコに2隻、さらにロシアに2隻を販売。これにより、大型兵器を扱う国際的な武器商人の地位を確立する。

    1888 年にザハロフはパリに定住。1897年、米機関銃メーカー「マキシム」に接近し、ノルデンフェルトとの合併に成功するや、翌年、イギリスの大手兵器会社「ヴィッカース」に働きかけ、「マキシム・ノルデンフェルト」をヴィッカースに吸収させ、自分はその販売代理人となる。
    彼の活動範囲は、ボーア戦争のアフリカや南米の紛争地域、キューバをめぐって米西戦争中のスペインにまで拡大した。

    1904年の日露戦争では、ザハロフが売ったマキシム機関銃が、日本軍に多大な損害を与えたが、敗北したロシアは軍備再建を急いだ。ヴォルガ川沿いのツァーリツィン(現ヴォルゴグラード)に、ヴィッカースが半分の株を持つ巨大な兵器工場群を建設(ピエール・ブノア『真夜中の太陽』で、フランス人技師が管理する大砲工場が登場する)。

    1907年には、北海道の室蘭製鋼所に英国製の兵器製造技術を導入。1910年に発覚した日本海軍「シーメンス事件」の余波で、ヴィッカースによる巡洋戦艦「金剛」受注にまつわる贈賄も絡み、当時の日本の一大疑獄事件に発展した。

    第一次大戦直前、「エクセルシオール」と「レコー・ド・パリ」の仏2紙を手に入れ、国民の戦争熱を呼び起こすことに成功。(大戦後の1919年、アルベール・ロンドル記者が、エクセルシオール紙へ)。
    総動員前日の1914年7月30日、ザハロフは軍備協力で海軍大臣の推挙により、レジオンドヌール勲章(3位のコマンドゥール)を授与された。同夜のこと、ザハロフの主敵、国際反戦を唱える仏社会党創設者ジャン・ジョレスが、狂信的ナショナリストに暗殺されている。

    大戦中の1914年から1918年にかけて、ヴィッカースにより、連合国に戦艦4隻、巡洋艦3隻、フリゲート艦62隻、潜水艦53隻、大砲2,400門、航空機5,500機、機雷100万個、機関銃10万丁以上を納入。
    これらの功績により、ロイド=ジョージ英首相、クレマンソー仏首相の推挙で、1918年、大英帝国大十字勲章、バス勲爵士サー・バジルに。1919年には、仏最高勲章であるレジオンドヌール大十字章を授与された。

    自分の銀行を使い、武器の購入資金を貸し付けて市場を奪うのが、ザハロフの手法だった。パリのセーヌ銀行、アテネ銀行、地中海商業銀行、コンスタンティノープルにはエクスプレス銀行、スミルナにはニューイオン銀行が。
    そのモデルは、フランスの武器メーカーで銀行家のウジェーヌ・シュナイダーである。シュナイダーは、フランス中央銀行の主要株主「200家族」に含まれ、同総裁もつとめた(民間株主の存在は、創設者ナポレオン・ボナパルトの発案による)。

    1918年7月の議会質問で、その「200家族」に、「外国人」ザハロフが加わっているのはなぜかと問われた。
    「法令上、フランス国民だけがこの銀行の株主になれるはず。オスマン帝国生まれの大砲商人はあり得ない」。
    財務大臣は、ザハロフがフランス国民であると答弁。1898年に、彼はフランスに帰化済みだという。

    賛否両論ある彼の慈善活動では、フランスの選手たちがアントワープオリンピック(1920年)に参加できるよう20万フランを寄付。1916年不発のベルリン大会でも同様。
    ケンブリッジ大学へ仏文学、パリ大学へ英文学講座を寄付。バルザック大賞の創設に協力。傷病兵治療の各病院や戦死者の寡婦への援助。パリ東駅に帰着した休暇兵士へ各40フランを配る。

    大戦後の1919年、ザハロフは、「偉大な古代ギリシャ」再建の夢を共有し、エレフテリオス・ヴェニゼロス首相の対トルコ軍事行動を支援。1920年8月、仏外務省高官フィリップ・ベルトロに国営石油会社の設立も持ち掛けている。
    同10月、戦争に消極的で退位したコンスタンティヌス王の次男で後継のアレクサンドロス王は、ザハロフの研究室で調合されたベニゼリン注射で興奮したとささやかれたペットの猿に噛まれて亡くなった。

    11月、ザハロフは、復位したコンスタンティヌス王の説得に成功するが、1922年にギリシャ軍は、ムスタファ・ケマル・アタテュルク率いるトルコ民族主義者に大敗北。
    敗走するギリシャ兵が置き去りにした銃には、「ヴィッカース」の刻印が。追うトルコ軍は、「シュナイダー・クルーゾ」製の銃。ザハロフは、財産の半分を失った。

    スペインのマルチェナ公爵夫人マリア・デル・ピラールとの出会いには、オリエント急行で、16歳の花嫁を殺害しようとした狂気の公爵から守ったエピソードが残る。
    王家の血を引くボルボン家の妻、カトリック教徒のマリアは何十年も離婚できなかった。彼女の3人の娘のうち下の二人は、ザハロフが父親とされる。公爵が入院先で死去し、二人を養子に迎え、1924年、74歳と54歳で結婚。

    モンテカルロのカジノを運営する「モナコ海水浴協会(SBM)」は、アルベール大公時代、「学者大公」の進取の気性と、創業者フランソワ・ブランの巧みな経営もあって、モナコ公国の費用をまかなうほど繁盛。
    賭博場はいち早く電灯で輝き、映画を上映し、一流の芸能人が舞台に立ち、水上飛行機の送迎。世界中から王侯貴族や大富豪が、切れ目なく訪れる。

    だが大公と2代目経営者カミーユ・ブランは不仲で、ザハロフは創業一族を追放し、みずから同社の筆頭株主に。後継ルイ2世「軍人大公」は、公国の君主となるまで、フランス軍の将校だった。狭い避暑地よりも、パリで暮らす。
    ザハロフは、妻となった公爵夫人に「領地」を持たせたいと思った。ルイ2世に公国買い取りを持ちかけると、大公は激怒。以後は、双方の意を受けた地元紙それぞれによる非難と中傷合戦となる。
    もう一人の大株主で反ザハロフのポーランド貴族レオン・ラジウィル王子(プルースト『失われた時を求めて』の貴族サン=ルーのモデルの一人)は、毒針で暗殺された。

    1926年2月、当時は不治の病とされていた結核により、妻が死去。気落ちしたザハロフは、公国の主人になる計画を放棄、SBMの全株を売却した。大公も、ザハロフがそのままモナコに留まるのを許した。
    痛風に苦しむ車椅子のザハロフは、1936 年11月、モンテカルロのオテル・ド・パリの居室で脳卒中の発作により死去。享年87。

    1949年、ルイ2世の孫レーニエ大公が即位。第二次大戦で米軍用船舶を建造して巨万の富を築いた海運王アリストテレス・オナシスも、オスマン帝国生まれのギリシャ人で、SBMの大株主となる。1956年、大公は米女優グレース・ケリーと結婚するが、1966年、カジノの隆盛にしか関心がないオナシスの排除をはかる。オナシス嫌いのド・ゴール大統領が協力し、SBMの大幅増資により、オナシスは少数株主に転落。モナコ最高裁で敗訴後、SBM株を売却しモナコを去った。

    「東側でも西側でもない。目的は世界の完全なコントロール」 (007 ドクター・ノオ)

     


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