【寄稿№56】ナポレオンとエルサレム | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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    <2023.10.27寄稿>                                                                           寄稿者 たぬきち
    2023年夏、優れたドイツ語訳外国文学作品を奨励するLitProm 協会が、パレスチナ作家アダニア・シブリの小説「Eine Nebensache(些細な事)」に「文学賞2023」を授与すると発表。
    英訳は、前年、国際ブッカー賞の候補にも挙がった。
    授賞理由「国境の力と暴力的な紛争が人々に何をするかを伝える厳密に構成された芸術作品」。

    彼女の小説は2部構成で、1949年、ベドウィンの少女が、ネゲブ砂漠でイスラエル兵に虐待され殺害される(20年前にイスラエルのメディアで取り上げられた実話から)。
    第2部は数十年後。ラマラの女性ジャーナリストである主人公が、この事件の調査に砂漠へ向かおうとして、イスラエル軍の検問所で射殺されて終わる。

    WDR(西部ドイツ放送)のウルリッヒ・ノラー記者は、決定に抗議して、同審査員を辞任。
    彼によれば、「すべてのイスラエル人は殺人者で、パレスチナ人は犠牲者とする、反イスラエル・反ユダヤの『パンフレット(政治宣伝文書)』だ」という。
    ドイツの有名作家マキシム・ビラーは、かつて、自身の「オートフィクション」作品『エスラ』で、トルコ系女優との恋愛を描き、「史実と創作の境界が明確でない」として、連邦憲法裁判所で発禁とされたことがあるのだが、同じく、「この本は、小説でなく『非文学的なプロパガンダ』に過ぎない」と批判。

    フランクフルト・ブックフェア(2023年10月18日~22日)での賞の授与式は、10月7日、イスラエルでハマスのテロが起き、取り止め(賞の取消はない)。
    ちなみに、前年の同賞は、若竹千佐子の独訳作品『Jeder geht für sich allein(おらおらでひとりいぐも)』に贈られ、2022年ブックフェアで授賞式が行われている。

    フェア開会式の講演者として、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクは、「ナチスが中東にユダヤ人国家建設を認めていた」(ヒトラーは、ユダヤ人が出て行くのならと、当初シオニスト団体を優遇)せいで、「欧州右派は、イスラエルが好きだ」と発言。
    演説中に会場を出た聴衆もいた。

    ベルリンを拠点とするジャーナリスト兼作家ハンノ・ハウエンシュタインは、「ナクバ」(国家樹立中にパレスチナでイスラエル人が犯した残虐行為)を軽視する傾向を批判して、作品を擁護(英ガーディアン紙)。

    2022年度ノーベル文学賞を受賞したフランスの小説家アニー・エルノー(自分は「オートフィクション作家」ではないという「オートフィクション」の作家。」邦訳多数)を筆頭に、世界の数百人の作家が、シブリの授賞式実施を求めた。

    昨年のパリ、「生活費の高騰と気候変動への不作為に反対する集会」では、アニー・エルノーと左派最大政党「不屈のフランス(LFI)」指導者ジャン=リュック・メランションが行進の先頭に立った。
    前回の仏大統領選挙でも、「行動する作家」エルノーは、メランションを支持。
    「男女平等の具体的実現に最も力を注いでいるのは、メランションです」。

    一方、新民衆連合「ラ・ヌープ(左派の選挙同盟)」パートナーの社会党は、ハマスをテロ組織と呼ばないメランションを、「もはや左翼とエコロジーを体現する人物ではない」と非難。緑の党、共産主義者、社会党との左派同盟は、崩壊の危機に瀕している。

    130年前の1897年8月、最初のシオニスト会議が「シュタットカジノ・バーゼル」(バーゼル交響楽団の本拠)で、テオドール・ヘルツル議長のもと開催され、後にイスラエル国家創設につながる。
    ミュンヘンを会場とする当初案には、同地のユダヤ人コミュニティが反対。
    「エレツ・イスラエル(ユダヤ人の地)」エルサレム(シオン)に戻ろうという「シオニズム」に熱心な東欧のユダヤ人学生の多くは、スイスに住んでいた。
    しかし、チューリッヒには、ロシア帝国からの難民が多いため、ツァーリの秘密警察の活動が活発だった。

    ヘルツルは、ハンガリーのブダペスト生まれで、ドイツ語を話す家庭で育った。1891年にウィーンの新聞のパリ特派員となり、1894年、「ドレフュス事件」で全仏の「反ユダヤ主義」の高まりを目撃。
    1896年、『ユダヤ人の国』を執筆、ユダヤ人国家の建設を説いた。
    だが、メシア(救世主)を待たず、パレスチナにユダヤ人の「国民国家」を建設する運動には、正統派ユダヤ教徒は反対だった。
    ヘルツル自身は、1904年に44歳で死去するが、彼は当時の西欧的知識人として、パレスチナ人の反発なぞ、念頭になかったに違いない。

    一方、最初のシオニスト会議では、ほぼ100年前、ナポレオン・ボナパルトが、エルサレムを首都としてユダヤ人国家建設を認めようとしたことを覚えている者は、ほとんどいなかった。

    1789年のフランス革命は、宗教的寛容と世俗主義を掲げた。
    ユダヤ人も、平等に市民となる。
    ナポレオンは、1797年、イタリア戦役中に、イタリア中部アドリア海沿岸の港湾都市アンコーナに入った。
    同地のユダヤ人は、黄色い帽子と腕章、六芒星(ろくぼうせい=ダビデの星)を身に着けていた。日没にはゲットー(居住区)に戻らねばならない。
    ナポレオンはこれらを廃して、三色旗のリボンを着用するよう命じ、ゲットーの壁を取り壊した。

    マルタ島でも、マルタ騎士団を打ち破り、その奴隷とされていたユダヤ人を解放。

    エジプト(当時はオスマン帝国の一部)を征服し、紅海からインドへ進出して、イギリスの勢力を弱めることが計画された。
    1798年7月、アレクサンドリアに上陸し、街を占領。7月25日、カイロ到着。

    ナイルの戦いを経て、ナポレオンは、1799年初頭にシリア進出。
    ヨルダン川西岸ラマラを経て、シナイ半島北部のアルアリシュ、ガザ北方の海沿いの町ヤッファ(テルアビブ)、ハイファ占領。
    向かいの小都アッカ(エーカー)には、十字軍の巨大城壁が残る。

    ナポレオンは、彼の有名な書簡「ユダヤ人国家へのマニフェスト」を書いた。
    「主の贖(あがな)われた者は戻ってきて、叫び声を上げてシオンに来るだろう。永遠の喜びが彼らの頭上にある(イザヤ書35:10)」。
    「エルサレムの正統な相続人へ」、「今こそ、何千年もの間、世界の人口の間で恥ずべきことに否定されてきた公民権、国家間の国家としてのあなたの政治的存在、そしてあなたの信仰に従ってエホバを崇拝する無制限の自然の権利を回復するための瞬間です、公にそしておそらく永遠に」。

    だがオスマン帝国は、1492年にスペインから追放されたユダヤ人を受け入れた唯一の国だった。
    ユダヤ人は、トルコの支配者スレイマン大帝によるパレスチナ征服を「神からのしるし」と見なした。
    彼の政策はリベラルで、ユダヤ人は「嘆きの壁」(西暦70年に破壊された寺院)で祈ることも許された。
    スレイマンの後継者の支配は、エルサレムに宗教的平和をもたらした。

    ナポレオンは、エルサレムのユダヤ人に呼びかける。
    自分こそ「ユダヤ人の解放者」、アッカを取り、エルサレムに移動するつもり。
    しかし、エルサレムの首長ラビは、これを謝絶。
    そしてナポレオンは、エルサレムに到達できなかった。
    アッカ防衛は、オスマン帝国官僚のユダヤ人アル・ジャザール大臣が主導、2か月の包囲に耐えた。
    ナポレオンは、ペストに罹った兵士を残し、パレスチナを去った。
    エジプトの海岸までずっと、兵士たちと一緒に歩き、残りの軍隊をクレベール将軍に任せ、イギリス艦隊を避けて、密かにフランスに戻る。
    パリでは東洋で勝利を収めた征服者のように称賛され、これから皇帝にまで登りつめる。

    18世紀に初めて、ナポレオン・ボナパルトは、「パレスチナをユダヤ人の故郷と宣言する」最初の支配者となったのだった。
    これ以降も、彼は、次々に、「仏国内でのユダヤ人保護」法令を発している。
    ナポレオンの上記「エルサレム書簡」は、実在が疑われたが、1940年、ロンドンのユダヤ雑誌でその英訳が公表された。
    仏語の控えは残っておらず、ウィーンのユダヤ人家庭で見つかったドイツ語訳からの重訳だという。

    ブックフェア最終日、印英系米国籍作家サルマン・ラシュディに、ドイツ書籍業協会「平和賞」を授与。
    1989年以来、小説『悪魔の詩(うた)』の冒涜(ぼうとく)疑いを理由に、「ファトワ」(イスラム法上の裁断)による殺害の呼びかけで、危険にさらされ続けている。
    2022年8月ナイフ攻撃を受け、右目を失明。
    「世界の多くの地域の独裁者が詩人を恐れていたのは常に事実でした。作家には軍隊がないので、これは非常に奇妙です」。ドイチェ・ヴェレ(ドイツ国営国際放送)平和賞インタビュー


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