【寄稿№60】日本人留学生失踪裁判 | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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    <2023.12.26 寄稿>                                 寄稿者 たぬきち
    2023年12月21日、フランス東部ブズールの重罪裁判所は、ブザンソンの大学に留学中だった筑波大生(当時21歳)が行方不明となった事件の控訴審で、殺人罪に問われた元交際相手のチリ人ニコラス・セペダ被告(33歳)に対する禁錮28年(求刑は終身刑)の第一審判決を支持し、被告の控訴を棄却した(上告)。

    彼女は、2016年12月4日から5日にかけての夜、学生寮の自室に、携帯電話と海外旅行用の大型スーツケース以外の持ち物すべてを残したまま姿を消した。
    それから7年が経過。

    2016年夏、彼女がフランス留学に踏み切る直前まで、セペダ被告は、チリから反対を繰返し伝え、結局、二人が別れるきっかけとなった。
    しかし、復縁を迫るべくブザンソンに姿を現し、同夜二人はホテルのレストランで会食。
    二人で寮の部屋に戻ったあと、深夜、他の寮生達は女性の絶叫を耳にした。

    12名もの寮生が彼女の部屋の前に集まったが、以後、物音はせず、皆の先頭に立つ新しいボーイフレンドの携帯へ、彼女から、「もうあなたとは付き合わないことにしたので、立ち去ってほしい」とのメール着信。
    がっかりした彼は、そのことを仲間達に告げ、一同は引き上げてしまった。
    セペダ被告は、実に40時間を、机とベッドしかない彼女の部屋で過ごし、その後、監視カメラのない裏口から寮を出て行った。

    セペダ被告によれば、自分が出て行く際、もちろん彼女は生きており、「ベルギーへ行って、新しい人生を始めるつもり」と話したという。
    その後、最寄り駅でリヨン行きの切符が彼女のカードで購入されたものの、乗車した人物はいなかった(自分の自演と、法廷で自白)。

    フランス警察の捜査は周到を極め、彼や彼女の携帯の位置情報、彼が借りたレンタカーのGPS情報まで精密に把握。
    可燃物やポリタンク、マッチ、洗浄剤の購入も突き止め、近隣の森や川辺に車で繰返し立ち寄った事実も知った。
    寮の室内に一切の痕跡がないばかりか、車体も車輪も泥だらけのレンタカーは、車内やトランクルームは完璧に清掃されていた。

    捜査陣は、セペダ被告が絞殺した遺体をスーツケースに入れて運び、これらの立ち寄り先に遺棄したと考え、大規模な捜索を繰り返したものの、ついに発見できなかった。

    彼女の携帯は、セペダ被告がフランスを離れるまで、あちこちに発信を続けた。
    検察はGoogle記録に基づいて、彼女のGmailアカウントの最後の同期が、チリの首都サンティアゴでの2016年12月13日、被告のチリ帰着日であることを示した。

    フランス側の身柄引渡し要求に、チリでは、「死体なければ殺人なし」の上、両国間に身柄引渡し協定が存在しないこともあって、セペダ被告は自信満々で、サンティアゴの裁判所での審理に出頭した。
    父親は、チリ最大の通信企業の幹部ということで、富裕層の子弟であり、有能な弁護士も付いて3年間の法廷闘争。
    だが2020年7月、チリ最高裁は、セペダ被告のフランス移送を認めた。

    チリの法律専門家も、「死体なければ殺人なし」を指摘していた。
    例外は、わずか2件しかなく、1件は、船上で被害者を射殺し海に投げ込むのを目撃した証言があったケース。
    もう1件は、容疑者の靴に被害者の血が付着していたケースである。

    チリでは、独裁者ピノチェト大統領時代(1973~90年)の政治弾圧により、いまだ数千名の行方不明者を抱えており、虐殺者を不処罰のままにしてきたのだった。

    さらに、ラテン的な「情熱の犯罪」(恋情のもつれから、男性が女性を手にかける)という思考への批判が高まる。
    「フェミサイド(女性殺し)」の重罪化や、未成年の子供の養育費支給制度(母親を殺害した父親は刑務所)などが設けられる時期に当たっていた。

    2023年11月29日、ヘンリー・キッシンジャー(ベトナム和平で、1973年ノーベル平和賞を受賞)は、百歳で天寿を全うした。
    1976年6月、彼は米国の国家安全保障担当補佐官としてチリを訪問し、ピノチェト大統領と会談。
    チリをはじめとして、アルゼンチンやブラジルその他の中南米各国の軍部と連携し、カストロのキューバ革命以来、影響を拡大するソビエト勢力を排除すべく、「コンドル作戦」を開始するよう働きかけた。
    軍と警察による左派政治家や活動家の誘拐・拷問・虐殺、強制収容が始まる。
    米国が果たした役割を批判したハリウッド映画「ミッシング(行方不明)」1982年(ジャック・レモン主演)がある。

    フランスは、共和党のジスカールデスタン大統領時代(1974~81年)で、米国と共同歩調をとり、フランス系住民が多いアルゼンチンやチリの当局と、密接に連携。
    一方で、そうした活動で母国に居づらくなった弾圧側の亡命者も受け入れた。
    次の社会党のミッテラン大統領時代(1981~95年)には、一転して、これらの国々で迫害を受けた亡命者を多数受け入れている。

    2023年12月4日、セペダ被告の両親が、証人として出廷。
    父親は、これは冤罪(えんざい=無実の罪)で、フランス警察の不十分な捜査や検察の一方的な決めつけだと非難した。
    彼も、チリでは「死体なければ殺人なし」であって「例外は2件しかない」と指摘。
    「自分は決して裕福ではなく、無職の存在」だという。
    失業の理由は語らなかった。

    フランスで最初に父親が選んだのは、サルコジ元大統領の盗聴事件を弁護したジャクリーヌ・ラフォン弁護士だった。
    「フェミサイド」の印象を打ち消すべく、ラフォン弁護士は、同じ事務所の若手ジュリー・ベネデッティ弁護士を従えて、第一審の法廷に臨んだ。
    セペダ被告の両脇を二人の女性弁護士が固める構図が、繰返し報道された。

    だがラフォン弁護士は、さすがに一流で、最終弁論後、セペダ被告を振り返り、「最終陳述では、自分の言葉で真実を語るように」と促した。
    セペダ被告は同じ主張を繰り返し、判決は28年の刑であったから、父親は彼女らに替えて、アントワーヌ・ヴェイ弁護士を選び、控訴審にのぞむことにした。

    ヴェイ弁護士は、フランス一の「無罪請負人」エリック・デュポン=モレッティ法務大臣のかつての同僚である。
    国際的には、「ウィキリークス」のジュリアン・アサンジ被告の弁護活動にも加わっている。
    けれども、ヴェイ弁護士は、控訴審の開廷予定日に辞任。

    控訴審は延期され、地元のルノー・ポルトジョワ弁護士とパリのジュリアン・ドレフュス弁護士に急きょ変更。
    ドレフュス弁護士は、上司を毒殺したスリランカ人労働者の弁護を担当したばかりだった。
    だがドレフュス弁護士も、準備段階で辞任。

    後任のシルヴァン・コーミエ弁護士は、サッカー界のスーパースターであったカリム・ベンゼマ選手を弁護したことで有名。

    次々に超有名弁護士を雇おうとする「無職の父親」というのは、いったいどのような存在なのだろうか。
    『ラ・クラッセ・ドラーダ(黄金の階級)』(ハイメ・ヴァルデス著 1973年)は、ピノチェト将軍のクーデターで倒されたサルバドール・アジェンデ大統領時代にも腐敗はあったとして、社会主義政権下での特権階級による富の独占ぶりを指摘した。
    ピノチェト以降の中道左派政府が続く現在もまた、セペダ被告の父親などは、「黄金階級」に属していると見られている。

    フランスの刑事裁判では、民刑事合同審理が可能で、被害者の母親と二人の妹が、損害賠償を請求する「民事当事者」として参加。
    被害者の新しいボーイフレンドで、当初は、仏警察にも第一容疑者と目星を付けられ、セペダ被告側も、真犯人に擬していた同級生も、また「民事原告」として出廷。
    それぞれ弁護士を伴っていた。

    2023年12月20日、家族を支えるシルヴィー・ギャレー弁護士は、ブザンソン生まれの文豪ヴィクトル・ユーゴーが、セーヌ川で溺死した愛嬢レオポルディーヌを思う挽歌(ばんか=哀悼詩) 「夜明けの明日」を朗読。
    「明日、夜明け」「悲しみながら歩き」「あなたの墓にたどり着く」 Les Contemplations ( 1856年 ) と、弁論を締めくくった。
    被告側のコーミエ弁護士は、「同じユーゴーが、「独りよがりの思い込みなきものを『真実』という」と言っていますよ」と応じた。

    軍事独裁政権後、アルゼンチンが比較的早くから、誘拐・拷問・虐殺の責任追及に取り組んだのに対して、チリはといえば、「司法による不処罰」を乗り越えられず、一進一退を繰り返してきた。
    だが、2023年12月15日、チリ最高裁は、ついに、ピノチェト独裁政権の元政治警察官22名を、「コンドル作戦」での誘拐と殺人の責任者とする有罪判決を支持するに至った。
    セペダ被告の母国のほうが、この7年間のうちに変貌を遂げていた。

    とはいえ、こうした動向が永続的かは分からない。
    アルゼンチンに、右派のハビエル・ミレイ新大統領が誕生し、側近は、「「コンドル作戦」での犠牲者数は、そんなに多くなかった」と言い始めている。
    そしてチリでも、極右の若い政治家ベアトリス・ヘヴィアが彗星(すいせい)のように登場。
    彼女は、中道左派政権の憲法草案よりもうんと保守的な改憲案を提示(双方案とも、国民投票で否決されたが)。

    セペダ被告の控訴審判決の翌日、2023年12月22日、チリに乗り込んで身柄引渡しを求めて以来、この事件を担当してきた地元のエティエンヌ・マントー検事が記者会見。
    「行方不明の被害者を殺害し、川に投棄したという犯人の自白が取れました」。
    「遺体は見つからないのですが」というのは、セペダ被告のことではなく、元妻の新しい交際相手の男性を射殺した農場主の別事件だった。

    2023年12月11日から2024年1月4日まで、チリ大学(セペダ被告の母校)は、1973年当時の「ドーソン島政治犯収容所」展を、サンティアゴのキャンパスで開催。
    2023年5月には、チリ映画「ロス・コロノス(開拓者たち)」(フェリペ・ガルベス監督)が、カンヌ映画祭でプレミアム上映された。
    20世紀初頭、ドーソン島の先住民虐殺がテーマであり、マゼラン海峡沿いの同地は、二度の悲劇の舞台だったわけである。

     


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