【寄稿№66】ワシントンにジュリアン・アサンジの銅像を建てる | 東京駅・茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№66】ワシントンにジュリアン・アサンジの銅像を建てる




    <2024.4.8寄稿>                            寄稿者 たぬきち
    2024年3月26日、イギリス高等法院王座部は、ウィキリークス創設者ジュリアン・アサンジを、米国に引き渡すか、それとも母国オーストラリア帰国を認めるかにつき、きたる5月20日に再審理すると決定した。
    その際には、米政府が死刑にしないこと、および、彼の表現の自由を保障するとの約束表明が、重要な判断要素になるという。

    イギリスで類似ケースとして思い出されるのは、1999年、腰痛治療のためロンドン滞在中の、南米チリのかつての独裁者アウグスト・ピノチェト元大統領の身柄を、スペインに引き渡すか、それとも母国帰還を認めるかが争われた事件である。

    ピノチェト将軍は、1973年9月、サルバドール・アジェンデ大統領の社会主義政権をクーデターで倒し、翌年、大統領就任。米国のヘンリー・キッシンジャー国務長官と、情報機関CIAが協力した。

    1982年、隣国アルゼンチンとイギリスが、フォークランド諸島(マルビナス諸島)の領有権をめぐって、「第二次大戦後初の本格戦争」をはじめると、チリは英国支持を宣言。英軍機の発着、兵士の立ち入り等を許したのだった。

    1986年9月には、共産主義の「マヌエル・ロドリゲス愛国戦線」による同大統領暗殺未遂事件が起きるが、その際にも、先のクーデター時と同様、大弾圧により多数の死者・行方不明者を出した。

    1998年10月、82歳の元大統領は、ロンドンの病院で腰の手術を受けて療養。
    フォークランド戦争を指揮した「鉄の女」サッチャー元首相(保守党)は、当時の協力を多として、懇切に彼を見舞った。

    だが、ロンドンで亡命チリ人によるデモが激化する一方、スペインからの国際逮捕令状により、トニー・ブレア首相(労働党)下の政府は、元大統領を拘束した。
    権力の座にあった当時、チリ在住のスペイン国民多数を迫害した罪による。
    1999年3月、英国貴族院(当時の最高裁)は、元国家元首として免責特権があるという弁護側の主張を認めなかった。

    同性愛者でLGBT活動家のチリの作家ペドロ・レメベル(2015年没)は、ピノチェト暗殺未遂事件を背景とした恋物語『私は(愛が)怖いわ、闘牛士』(2001年)の作中、ピノチェトは大統領職を去るにあたり、憲法を改正して、自分を「終身上院議員」にしたと記しており、イギリスの裁判では、このことからも、現役の国家元首並みの免責が認められるはずと主張したが、否定された。

    だが、医師らは、彼がスペインに送られるのに適さないとし、内務大臣が釈放と帰国を認めた。
    2006年、チリでの多数の告訴が保留されたまま、91歳で死去。

    フォークランド戦争後のこと、私が勤務していた大学に、チリからピノチェト夫妻が留学してきた。
    その名の通り、アウグスト・ピノチェト大統領の一族で、夫は理工系の研究者、妻は法律家で、憲法を勉強するそうだ。

    大統領自身はフランス・ブルターニュ系で、軍服よりもベレー帽姿が似合いそうな体型だが、こちらのピノチェト氏は細身で黒い髪とひげ、画家ベラスケスの肖像画で見る17世紀スペインの青年貴族風。
    夫人は明るい色の髪で、ドイツ移民の子孫だという。
    私が受け入れ先ではなかったため、その後の消息は知らない。

    ジュリアン・アサンジをめぐっては、ロンドンの裁判所は、2010年にスウェーデンが最初に性犯罪容疑で身柄引き渡しを要求して以来、彼を相手にしている。その後、米国もこれにならい、ハッキングとスパイ活動の罪で起訴、アサンジの引き渡しを求めた(スウェーデンは、その後、要求を取下げ)。

    イラク戦争やアフガン紛争時の米軍による戦争犯罪リークをはじめたアサンジは、より安全なサーバー管理を求めて、「スウェーデン海賊党(ピラーテン・パルティエト)」を頼り、ストックホルム訪問。
    スウェーデンではスターのように歓迎されたものの、講演依頼をした女性関係者二人が、不同意性交のかどで彼を告訴(スウェーデンの#MeToo運動が、盛んになる時期だった)。
    予備調査中に、彼はロンドンへ逃亡。

    スウェーデンへの身柄引渡審理中に、ロンドンのエクアドル大使館に駆け込み、亡命。7年間の幽閉生活へ。

    アサンジ本人がエクアドル大使館に籠城中の2015年、フランスの人気コミックス・シリーズ「アステリックス」の新しい作者フェリと画家コンラッドは、第36巻『シーザーのパピルス(巻物)』を発表。
    シーザーの「ガリア戦記」で、主人公アステリックスらの小さな村の抵抗を抑えきれないとあるのを、英雄譚(えいゆうだん)らしくないとしてカットしたところ、未検閲版が持ち出され、ドゥブル・ポレミックス(論争を繰り返す者)の手に渡ってしまう(作者は、あやうく名前を「ウィキリックス」とするところだったという)。
    最後は、村長が巻物をシーザーに返し、その代わり、ポレミックスをこれ以上いじめないとの約束を得るのだが、現実はどうか。紙の文書は取り戻すことができるが、拡散してしまった電子情報は元に戻せない。

    アサンジは、自分にはフランス人女性との間に未成年の子がいるとして、フランス向け亡命を申請。フランスの「無罪請負人」と呼ばれたエリック・デュポン=モレッティ弁護士を中心に、亡命許可を求める運動が起きたものの、フランス政府はこれを拒否。
    その後、同弁護士が法務大臣に就任したことで、亡命運動とその可否を審査する側の双方にデュポン=モレッティがいては、利害衝突を生じるため、かえって成功の見込みは失われた。

    先のフォークランド紛争時、フランソワ・ミッテラン大統領も、いち早く英国支持を表明したのだが、なにしろ、フランス国産のミラージュ戦闘機やエグゾセ対艦ミサイルをアルゼンチンに売っていたこともあって、フランスの立場は微妙だった。

    社会党のミッテラン大統領の外交顧問に就任していた作家レジス・ドブレは、かつてチェ・ゲバラ最後のボリヴィア作戦に同行し、逮捕・投獄後、釈放されてチリに出国。社会主義者アジェンデ大統領を取材した本も出版するが、ピノチェト将軍によるクーデターに遭遇して帰国。
    にもかかわらず、彼は、米ソ「東西」冷戦の時代にあって、「南北」の立軸を通すことでフランス外交の存在意義を高めるべきだと考え、チリと似た軍事独裁国家であるアルゼンチンに味方するよう進言していた。
    しかし、ミッテラン大統領は、両大戦での英仏の協力関係からして、ここはイギリスに加担しないわけには行かないと決断。

    アサンジは、しばしばエクアドル大使館のベランダに姿を見せ、眼下の支持者らに向けて演説したりしていたが、同国の大統領が替わり、亡命を取り消されて英国警察に逮捕された。厳重警備のベルマーシュ刑務所に収監され、5年が経過。

    フランス亡命の可能性も消えた後、アサンジの元弁護人ステラ・モリス弁護士が、かつてエクアドル大使館に面会に通ううちに2人の男児をもうけたと公表。
    ベルマーシュ刑務所に出向き、獄中結婚して、アサンジ夫人となった(アサンジには、前婚でもうけた成人の息子が一人、オーストラリアにいる)。
    彼女は、夫の母国オーストラリアを訪問し、同国議員の支援を取りつけた。

    今秋の米大統領選の「第三の候補者」ロバート・ケネディ・ジュニアは、米国にとり内部告発者は英雄であり、彼らに恩赦を与え、ワシントンに銅像を建てるという。
    当選する見込みはなさそうだが、これでは米国への身柄引渡しを認める判断のきっかけとならないか。
    もっとも、そうなっても、次はストラスブールの欧州人権裁判所で争うことになる。
    同裁判所の歴史は、EUよりも古く、ブレグジットは関係ない。

    最初からおとなしくスウェーデンに留まるか、あるいは引渡し要求に応じて、同国の法廷で刑事犯罪の有罪を認め、何年か服役したほうが良かったという説もある。
    スウェーデンは、国策として、自国で犯罪を構成しないような容疑では、決して身柄引渡しに応じない。
    米国のスパイ罪で、死刑もしくは懲役175年など、スウェーデンではあり得ないのだから。

    「自由なジャーナリズムを守れ」という声は多いが、一方、これはジャーナリズムの手法と異なるとの指摘もある。
    アサンジの情報源で、当時イラク駐留の米軍兵士ブラッドリー・マニングは、「性別違和」に悩んでいて、その後、トランス女性としてチェルシー・マニングとなっている。

    彼(彼女)をそそのかして入手した米軍の機密を暴露するのは、ハッカーもしくは活動家のそれであって、ジャーナリズムとは無関係だとも。
    マニングは、軍法会議(軍事法廷)で懲役35年とされたものの、オバマ大統領の恩赦によって、4年ほど服役して出所できた。
    現在は、「LGBTQIA+」活動家である。

    ピノチェト元大統領の帰国が認められたとき、彼は弱々しい様子で車いすに座り、母国からの迎えの航空機へと運ばれた。
    けれども、首都のサンティアゴ空港に着くと、そこに車いすはなく、スタスタと歩いて元気な姿を見せたのだった。
    元独裁者に反感を抱く人々は、「機中で劇的に病気が治った!」と皮肉った。

    7年間のエクアドル大使館暮らし後、イギリス警察の手で運び出されたアサンジの姿は、40代というのに、プラチナブロンドの髪はもはや白髪になり、ひげも伸び放題で、憔悴していた。
    まだ50歳だが、病気の発作も経験し、心身ともに衰弱しているということで、裁判にも出廷していない。
    オーストラリア帰国が許されたら、よもや「機中で劇的改善」することはないだろうか。

     


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