<2024.9.9寄稿> 寄稿者 たぬきち
R・サヴィアーノ著/大久保昭男訳『死都ゴモラ』(河出文庫[原書は2006年])の冒頭は、次のようなショッキングなシーンで始まる。
「コンテナは宙で揺れ動いていた。クレーンがそれを船の中へ運び入れようとしているのだが、コンテナとクレーンの連結がうまくいっていないらしく、ひとり宙を舞っているかのようだった。と見る間に、きちんと閉めていなかったらしいコンテナの扉が急に開いて、数十人の人体がばらばらと船上に落下し始めた」。
「全員が凍結され、ひとかたまりに置かれている」。
「その誰もが、中国のそれぞれ自分たちの町で埋葬してもらうための金を用意していたらしい。いや、彼らは給与の一部を天引きされており、その代わりに、死んだ時の帰国の旅を保証されていた」。
イタリア半島中央ローマの南に位置するカンパニア州ナポリ港の事件だが、同地を支配するマフィア「カモッラ(語源は、旧約聖書の背徳の市ゴモラか)」のクラン(一族)が、不法就労の中国人労働者を搾取(さくしゅ)した結果の出来事である。
「カモッラ」がカンパニア州の経済を支配している実情を厳しく糾弾した同書は、たちまち世界各国で翻訳され、大ベストセラーとなった。
相次ぐ逮捕・摘発、大規模裁判によって、イタリアの有名企業が下請けの下請けに、違法労働たのみのマフィア企業を重宝することはなくなったかに見えた。
ところが最近、イタリア当局は、高級ブランドのジョルジオ・アルマーニと、クリスチャン・ディオール・イタリアを相次いで捜査。
これらの配下の会社が、北イタリアのミラノ周辺の不法就労者を雇用する中国系企業に注文を出し、バッグやアクセサリーの製造を委ねていたとして、むこう1年間、ミラノ地方裁判所の監督下に置くものとした。
すでにコロナ流行期に、イタリアの中国系工場の存在が指摘されていたのだった。
ローマから北のウンブリア州(州都ペルージャ)で、ヨーロッパで一番早く新型コロナウイルスが流行したのは、北方ロンバルディア州ミラノ周辺に中国系工場がたくさんあったから。
コロナウイルスは、当初認識されていたよりも早くイタリアに伝わっていて、最初の散発的な感染者は2019年末に遡る。
2020年1月中旬にウイルスの存在が公式に記録され、最初の集団感染は2020年2月21日であったのだが。
もっとも、このたびの摘発では、マフィアの関与は出てこない。
その一方で、南部カラブリア州を拠点とする「ンドランゲタ(勇者)」、シチリア島の「コーサ・ノストラ(我らのもの)」、そして「カモッラ」が、最近ミラノに集結。
「ロンバルディア州協定」を結び、EUのコロナ復興資金ねらいの活動を強化しているという。
『ゴモラ』出版直後の2006年10月、当時の内務大臣は、サヴィアーノに警察の護衛をつけると決定。
2008年には、「カモッラ」を率いるカサレシ一族の多くの有力メンバーが起訴された。その大型裁判(「スパルタクス裁判」)中に、悔い改めた協力者(ペンティート)が、カサレシの頭領からサヴィアーノに「死刑判決」が出ていると証言。
身辺警護は、3人から5人(さらには7人とも)に強化された。
印税で大金を手にしたサヴィアーノは、ニューヨークのマンハッタンのコンドミニアムで「ペントハウス(最上階の邸宅)」を購入し、移住した。
そこからSNSで発信を続け、数々の著作も執筆。
イタリアを含むヨーロッパでの講演やテレビ出演には、18年変わらず警護がつく。
2018年6月、イタリア政府の移民政策をめぐり、サヴィアーノが自己の「フェイスブック」に投稿:
「冥界(めいかい)大臣(過去のイタリア政界に前例がある表現)」のマッテオ・サルヴィーニ内務大臣(当時)が、護衛を剥奪すると脅迫してくるだろう。「極道言葉」を使って。「マフィアは脅す。サルヴィーニは脅す」(内務大臣からの告訴状による)。
また、南ドイツ新聞のインタビューで、「ンドランゲタとイタリア内務省のスキャンダラスな不可侵協定」が明らかになった。内務大臣が、組織犯罪と戦う代わりに、組織犯罪と極悪非道な協定を結び、体制を踏みにじっている」と発言。
2018年10月、フランスのエマニュエル・マクロン大統領は、エリゼ宮にサヴィアーノを招き、『ゴモラ』の著者による少年犯罪をめぐる近作につき、語り合った。
イタリア極右を嫌っての、マクロン大統領の牽制だったが、現在、共和党右派のミシェル・バルニエ議員を新首相に指名。みずからも右旋回を遂げつつある。
2020年イタリアのテレビ番組では、首相になる前のジョルジア・メローニ議員の反難民姿勢を批判し、「ろくでなし!」と罵倒した。
それぞれに訴えられ、メローニ首相には敗訴、サルヴィーニ副首相(兼インフラ大臣)とは進行中。
政府に警護を取り上げられることはなかったが、イタリア国内ではサヴィアーノに対する非難が沸き起こった。
「大金持ちは自費で警護を雇えばよく、税金の無駄遣い」。
サヴィアーノに「死刑判決」を下したカサレシの頭領自身、「悔悟者」となり、死刑を撤回している。もはや脅威は存在しない。
そもそも『ゴモラ』は調査報道ではなく、事実確認を欠いた小説にすぎない上、南部イタリアの悪口を宣伝した、等々。
2021年、サヴィアーノは、挑発的とも見える自伝、イスラエルの漫画家アサフ・ハヌカとのコラボレーションによるグラフィック・ノベル「Sono ancora vivo(私はまだ生きている)」(2021年)を公刊。手もとにあるのは、英語版「I’m still alive」(2022年)。
「犯罪組織にとって、公に宣言された死刑判決が執行されないことほど悪いことはありません」。「つまり、私は彼らの失敗の生き証人なのです」。
「このろくでなしども、私はまだ生きている」。
インド系イギリス人(現在は、米国籍)作家サルマン・ラシュディは、著書『悪魔の詩』(1988年)がイランの最高指導者ホメイニ師の逆鱗に触れ、1989年、同師が発した「ファトワ(イスラム法学者による意見)」の対象となった。
趣旨は、「同書の出版に関与した者全員の死」を命じるものであり、そもそも「ファトワ」は、それを発した宗教学者だけが撤回できる。
だが、ホメイニ師はその半年後に死去しており、ラシュディに対するファトワは永遠のもの。
1991年、同書のイタリア語訳者が、襲われて負傷。
その1週間後には、日本語訳者である筑波大学准教授が殺害された。
1993年には、トルコ語訳者が出席する文化祭を暴徒が襲撃。本人は逃れたものの、会場のホテルが焼き討ちされ、37名が犠牲となった。
それから3か月後、ノルウェー語出版人が、狙撃され重傷。
「ファトワ」が発せられてから33年が経過し、ラシュディは、米国でほぼ普通の生活を送っていた。
2022年8月の襲撃後、2024年4月、ラシュディは、『ナイフ』を出版。
ニューヨーク州の講堂のステージで、黒装束の男が自分に向かって疾走してきたとき、ラシュディは左手を挙げて身をかばうだけだった。
「最初は、パンチの強いやつに殴られただけだと思った(後で知ったのだが、そいつはボクシングのレッスンを受けていたのだ)。今では、その拳にナイフを握っていたことが分かっている。首から血が流れ始めた。倒れると同時に、シャツに血液が飛び散っていることに気づいた」。
「左手に深いナイフの傷があり、腱と神経のほとんどが切断されていた。右手には少なくともあと2つの深い刺し傷があり、その真横に切り傷があり、右側にもさらに刺し傷があった。顔のさらに上の右側にも、もう1つ刺し傷があった」。
「今、胸を見ると、中央に傷の線があり、右下側にさらに2つの切り傷があり、右上の太ももに切り傷がある。口の左側にも傷があり、生え際に沿っても傷があった」。
「そして、目にナイフが刺さっていた。それは最も残酷な一撃であり、深い傷だった。刃は視神経まで突き刺さっていたため、視力を保つことは不可能だった」(同書13頁)。
2023年、ドイツ語版の出版に際しての「ドイツ共同ニュースRND)」インタビュー:
サヴィアーノさん、昨年重傷を負ったサルマン・ラシュディ氏への攻撃について聞いたとき、どのようなことが頭をよぎりましたか?
「もちろん、私はショックを受けましたが、彼が自由をどれだけ長く掴んだかにも感心しました」。
「私がサルマンにいつも繋がりを感じているのは、私たち二人がこの絶え間ない脅威に対処しなければならないからです」。
「彼はまた、私のためにも公に立ち上がってくれていました」。
「しかし、暗殺未遂事件の後、私が最初に思ったのは、ほとんどの人がそうであるように、「もし彼がボディーガードを連れていたら!」ということでした」。
「私は、彼が20年間も自由人として生きることができたという事実、そしてそれゆえに暗殺後も自由人であり続けたという事実について考えました」。
そのことで彼を羨ましく思いますか?
「複雑です。彼の自由な生活は、彼をこの危険にさらしました。しかし、もし彼が過去20年間も警護されていたら、彼は囚人になっていたでしょう」。
2024年10月開催予定の「フランクフルト・ブックフェア」事務局は、同5月、イタリア作家協会からの参加者推薦名簿に、サヴィアーノの名前がないことに当惑した。
2023年のブックフェア最終日、『悪魔の詩』の作家サルマン・ラシュディに「ドイツ書籍業界平和賞」が授与されており、今年はサヴィアーノにという計画があるらしい。
仕方がないので、ブックフェア事務局代表名義の招待状が、サヴィアーノ宛てに送られた。