【寄稿№82】ウィーン占領期「第三の男」と「瓦礫(がれき)の女」 | 茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№82】ウィーン占領期「第三の男」と「瓦礫(がれき)の女」




    <2025.4.18寄稿>                                            
    寄稿者 たぬきち

    2025年4月10日から9月7日まで、カール広場のウィーン博物館は、第二次大戦後80年記念行事として、「制御(せいぎょ)された自由 ― ウィーンの連合国」展を開催している。
    ポスターは、シュテファン大聖堂の尖塔を背景に、連合国の4本の国旗と、その前に立つ4人の連合軍兵士の姿。

    1945年4月から1955年9月まで、オーストリアは連合国の支配下にあった。
    オーストリア東部と首都ウィーンを解放したソ連軍に続き、ドイツのバイエルン地方からオーストリア・チロルへ入ったアメリカ軍、そして英仏の4か国連合軍が、全オーストリアを分割統治する。
    ウィーンも4分割の上、首都中心部(第1ゾーン)は4か国共同管理とされた。
    そこでは、米英仏露4人の憲兵が1台のジープに乗り合わせ巡回した(1950年制作のスイス映画『ジープの4人』は、これを扱っている)。

    オーストリアは「解放」されたのか、それとも「占領」されたのか。
    ドイツ第三帝国の独裁者アドルフ・ヒトラーは、オーストリア出身で、1938年の「アンシュルス=合邦(ごうほう)」により、オーストリアを併合。
    ベルリンを帝国の第一首都、ウィーンを第二首都と宣言した。

    オーストリアは、そうしたヒトラーによる「被害者」か、あるいは「加害協力者」だったのか。
    大戦中の1943年、モスクワで米英露の会談が行われ、「モスクワ宣言」として、オーストリア国内のレジスタンス(対独抵抗運動)を促す目的で、「オーストリアは、『最初の被害国』」と認めた。
    この宣言を根拠に、1945年の終戦以降、オーストリアは「被害者」を自称することができた。

    ウィーン博物館の企画展と歩調を合わせて、アウグスティナー通りのオーストリア映画博物館では、「解放されたキャンバス ー 連合国の映画政策1945-55」展が開催されている。
    連合国は、文化政策として、それぞれ自国の映画を紹介上映したのだった。

    最も好まれたのは、『バンビ』(1942年)、『風と共に去りぬ』(1939年)、『白雪姫と7人のこびと』(1937年)といった、戦前のアメリカ映画である。
    ソ連は、『イワン雷帝(らいてい)』(1944-48年)を。
    文化宣伝に最も力を入れたフランスによる『ドン・カミーロとペッポーネ』(仏伊合作1952年)は、意外な人気を集めた。
    イタリア北部ポーの町を舞台に、反共のカトリック司祭と共産主義者の町長が、幼馴染の無二の親友にして、その一方で、ことごとく対立するというコメディは、オーストリア人自身の姿と共通するようで、そこが愛されたのだった。

    だが、この時期のウィーンを描いた最も有名なイギリス映画が、なぜか含まれていないことに気づく。
    早くも1949年のウィーンで撮影された『第三の男』は、ここでの上映作品として取り上げられていない。

    ウィーン在住の友人ハリー・ライムに招かれた、売れない米人作家ホリー・マーティンズは、来てみると、たった今、ハリーがトラックにはねられて死んだと知らされる。
    ハリーの仲間は、自分達「二人で」ハリーを車の下から引き出したというのだが、ハリーのアパートの門番は、倒れたハリーの周囲には男性が三人いたという。
    「第三の男」は誰なのか。

    4分割のウィーン、電気も暖房も食料も不足した状態で、市民は生活のため何らかの闇(やみ)取引に手を染めざるを得ず、最も悪質な、連合軍病院からの抗生物質ペニシリンの窃盗と、その水増し薬がもたらす深刻な被害。
    偽造パスポートを持つチェコ難民の女性、そして連合軍の空襲と砲撃による瓦礫(がれき)の山が残る街路。

    そうした悲惨な「現状」を、連合国イギリスが、まるで「ニュース映画」みたいに切り取って見せたから、1950年ウィーンでの上映は市民に不人気で、わずか数週で打ち切られた。
    自分達の困難な時代を懐かしく振り返るには、まだ時間が足りなかった。

    フランスもまた、自国が「戦勝国」か「敗戦国」なのか曖昧な状況で、対独協力のヴィシー政府の高官達は国外逃亡。
    ドゴール将軍は、ロンドン亡命後、北アフリカで「自由フランス軍」の名の下、連合軍と共に戦いを進め、母国フランスに再上陸、やっとドイツ軍を追い出し追撃を命じた。

    フランス本国の被害もひどく、そのため1945年7月のウィーン「合同パトロール」には間に合わず。同年9月にやっと「ジープの3人」が「4人」になったのだった。
    『第三の男』で、難民女性アンナの連行時、フランス憲兵が、「マドモワゼル、あなたの口紅」(は、ここです!)というシーンに、わずかにフランスらしさを表している。

    フランスが担当したオーストリア西部のチロルとフォアアールベルクは、イタリアやスイスに向かいたい難民のコースとなっていた。
    手元の物資も人員も乏しいフランス当局は、できるだけオーストリア側の手を借りると同時に、住民や難民にも柔軟政策をとった。
    感謝を込めて、現地は、「寛容のエルドラド(黄金郷)」と呼ばれた。

    『第三の男』では、アンナとホリーが、瓦礫の山を駆け下りる。
    「解放」直後のウィーンでは、男性は戦死傷病か未帰還者が多く、女性ばかりの集団が瓦礫を片づけ、再建のためレンガを磨き直す作業に従事した。
    そうした「瓦礫の女達」の写真(1945年8月撮影)が、再び市民の目に触れ、オーストリアという国の「被害者神話」のシンボルとされたのは、実に40年後の1980年代後半になってからである。
    そして2018年に至り、極右政党オーストリア自由党の政治家の手で、彼女らを顕彰するモニュメントが建てられた。

    1986年、クルト・ワルトハイム前国連事務総長が、オーストリア大統領選に立候補すると、内外から、大戦中の彼の経歴に空白があるという指摘が寄せられるようになった。
    先の「アンシュルス」の結果、オーストリアの学生だった彼も徴兵され、ドイツ国防軍兵士として出征。
    東部で負傷して除隊後、大学に復帰することができたのだと、本人は言う。

    だが、新たな指摘では、ナチス突撃隊(SA)騎兵隊員として東部戦線へ向かい、帰国治療後は、南のバルカン半島方面のドイツ国防軍司令部で、参謀本部付き将校として司令官の副官となり、外国語能力を駆使して秘書や通訳的な任務に当たっていたはずだという。

    所属するE軍集団は、パルチザン掃討、住民虐殺やユダヤ人の移送にも関与。
    敗戦後、軍団長は現地で処刑された。
    そのため、無事復員していたワルトハイムも、こうした戦争犯罪者だと、主に東欧諸国とユダヤ団体から非難を浴びた。

    米英仏も加えての反対は内政干渉に思われ、かえってオーストリア国民の反発を招き、大統領選には勝利。
    連邦大統領に就任したものの、特にアメリカからは「ペルソナ・ノングラータ(好ましからざる人物)」として入国を禁止され、1992年の2期目選挙には立候補しなかった。

    その後、彼の戦争犯罪関与の疑いは晴れたが、オーストリアの国自体の「被害者神話」は、大きく損なわれた(ハーズスタイン著/佐藤・大塚訳『ワルトハイム 消えたファイル』共同通信社1989年)。
    そこで持ち出されたのが、40年前の「瓦礫の女性」神話だった。
    オーストリアは不本意にもドイツ側で参戦せざるを得ず、その結果が「瓦礫の女性達」なのだという。

    ところがここでも、被写体は、オーストリア・ナチスの女性達が、刑務所で服役する代わりに、瓦礫の撤去作業に従事している姿に過ぎないと指摘された。
    瓦礫からの復興は、連合国やオーストリア政府、ウィーン市や企業、それに(男性を含む)一般市民の手で、当然の事ながら、ブルドーザー等の建設機械も動員して行われたのであり、女性達の手作業だけに頼ったわけではない。

    そうした経緯の一方で、極右のオーストリア自由党は着々と票を伸ばし、2024年秋の総選挙ではついに第1党となってしまった。
    学者出身のファン・デア・ベレン大統領は、自由党主導の組閣を認めず、長い連立交渉の末、自由党を排除した政府樹立を目指した。

    『第三の男』では、背景に流れるアントン・カラスのツィター演奏が世界的に有名になった。
    名優オーソン・ウェルズの大観覧車(だいかんらんしゃ=リーゼン・ラート)での会話や、地下の下水道の追跡劇、中央墓地の並木道など、強い印象を残した撮影場所を巡るツアーは、今でも観光客向けに行われている。
    また、私設の「第三の男博物館」もあるので、外国人観光客はそちらに任せ、「ジープの4人」時代の回顧展は、主として市民向けに、オーストリアの「被害者神話」克服を目指すものなのだろう。

     


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