【寄稿№84】パリ祭とシトロエンと熱気球 | 茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

TOP読者投稿コラム一覧>【寄稿№84】パリ祭とシトロエンと熱気球

  • 【寄稿№84】パリ祭とシトロエンと熱気球



     
    <2025.7.22寄稿>                                            
    寄稿者 たぬきち

    フランスでは、7月14日の「革命記念日(パリ祭)」が過ぎると、本格的なバカンス・シーズンとなる。あとは7月27日、シャンゼリゼのゴールに向かうツール・ド・フランス最終ステージ。

    この時期パリにいたことがあり、まるで「宴(うたげ)のあと」みたいに、知り合いのフランス人もだれもいなくなるのだが、旧オペラ座近くのホテルからタクシーで、ダイアナ妃が亡くなったアルマ橋下のトンネル経由、セーヌ川をくぐった。
    中央を分ける四角いコンクリート柱の13番目が事故現場だ。その柱にストリート・アーティスト描く妃の肖像はまだなくて(2018年、半年で消失)、見分けはつかないものの、車のスピードとトンネル内の圧迫感は理解できた。

    7月14日は、フランス革命の発端となったバスティーユ牢獄襲撃(1789年)があった日であり、共和制国家の始原とされる日でもある。
    シャンゼリゼの大規模軍事パレード、夜は、エッフェル塔のふもとで恒例の大コンサート、深夜には、シャン・ド・マルス公園からトロカデロにかけて上空を数千のドローンが飛び、花火が夜空を彩った。
    また、昨夏のオリンピック期間中、ルーブル美術館そばのチュイルリー公園に浮かんでいた気球聖火台が戻ってきており、観客を喜ばせた。

    革命記念日を祝って、DSオートモビルは、「シトロエンは、フランスのすべての革命のパートナー」と題した新CM動画を公開。
    アーカイブ画像でフランス史の象徴シーンを組み合わせ、シトロエンとフランス人のつながりをたどる。
    「街路が語る物語」、「1789年7月14日、街路は世界を変えました」。「シトロエンは、この街路を遺産として受け継いでいます」。「シトロエンは、フランスのすべての革命のパートナーです」というナレーション。「カルチェ・ラタン闘争」(1968年)くらいしか、識別できないが。

    2010年のシトロエンCMは、つぎのようだった:
    「このブランドが一人の将軍に対して行ったことを、今日では一般の人々全員に対して行っているのです」。「シトロエンがあなたのためにできることは、想像もつかないほどたくさんあります!」
    「将軍」は、生涯で31件もの暗殺未遂事件に遭遇したといわれるシャルル・ド・ゴール元大統領を指している。

    小説『ジャッカルの日(上)』(フォーサイス・篠原 訳 角川文庫)でも描かれた1962年8月22日の「プチ・クラマール事件」が有名。
    パリ南郊の交差点で極右軍事組織OAS(アルジェリア独立反対)の自動小銃による襲撃に遭い、リアガラスは砕け、ボディに穴が開き、左前輪と右後輪がパンクする中、夫人とともに奇跡的に無傷で逃げ切った。
    リム走行なのに時速100キロ以上の猛スピードで脱出できたのは、憲兵隊員だった運転手の技量もさることながら、大統領車シトロエンDS19の前輪駆動とハイドロ・ニューマチック・システムによるユニークなサスペンション機構の卓越した高速安定性のおかげといわれている(Jeanneney, Un Attentat, 2016)。

    ド・ゴールは、愛車の装甲化を拒否していたのだった。
    後部トランクには、フォションで買った昼食用の若鶏も積まれており、事件後まっ先に夫人が、「鶏は大丈夫だったかしら?」と訊ねたエピソードも、フランス人好み。
    同車のレプリカ(複製)が、コロンベの私邸跡のシャルル・ド・ゴール記念館に展示された。

    この往年の名車に由来する「DSオートモビル」は、プジョー、シトロエン、フィアットなどのブランドを擁する欧州自動車大手「ステランティス」グループ傘下となっているが、6月2日、新たな「ジュール・ヴェルヌ」コレクションを発売。
    とくに、高級セダンDS 7 JULES VERNEは、プラグイン・ハイブリッド・エンジン搭載。そして、同コレクションのシンボルマークも、あの聖火台と同じく気球である。

    気球聖火台のコンセプトは、1783年に熱気球による初飛行を可能にしたモンゴルフィエ兄弟へのオマージュだった(仏五輪委)。
    兄弟は、暖炉の火のそばに吊した布きれが熱した空気で浮き上がるのを見て、王立製紙工場の協力で、綿と紙(のち絹布)を貼り合わせた気球を製作。
    1783年9月19日、ヴェルサイユ宮殿に招かれ、国王ルイ16世(気球製作のスポンサー)と王妃マリー・アントワネット、貴族や仏アカデミーの科学者たちの前で、動物(羊、アヒル、オンドリ)を乗せ、600メートルの浮揚実験に成功。
    次には、同年11月21日、貴族で科学者のピラトル・ド・ロジエが気球に乗って飛んでみせた。

    フランス革命によって、ルイ16世は、コンコルド広場でギロチン(断頭台)にかけられる。
    彼はアカデミーの創設者であり、早くから科学に関心を抱き、それには科学の発達によって国の経済を振興したい思いがあった。
    自分でも、錠前や機械式時計の製作に取り組み、「鍛冶屋(かじや)」とあだ名された。
    宮殿内の作業部屋で工具を扱う鍛冶職人姿の王の肖像が残る(ストラスブール近現代美術館)。

    そんな王を喜ばせようと、ドイツの時計職人と家具職人が、王妃そっくりの人形が楽器を演奏する精巧なからくり仕掛け「ティンパノン」を製作し、献上した。
    グランドピアノに似た楽器の弦を木琴のように叩くからくり人形(ハンマーダルシマー奏者)は、王妃によって美術館に寄贈され、現存している(パリ現代美術館)。

    フランス革命では、王妃も、コンコルド広場でギロチン処刑された。
    オリンピック開会式では、昔の牢獄コンシェルジェリーで、首のない王妃がベランダに立ち、かかえた首が革命時の流行歌を歌う演出があったが、「ティンパノン」の演奏のほうがよかったのではないか。

    1858年秋、パリの有名写真家ナダールは、気球からの空中写真の特許を申請した。
    パリ南郊エソンヌ県で、眼下の広大な敷地の空中ショットによって、各地主の地籍書換え申請を可能にし、土地登記所への手数料を稼いだ。
    1863年10月、6,000立方メートルものガスを入れた巨大気球「巨人号」により、パリからハノーバー王国へ飛行。
    着陸は壊滅的で、数十キロにわたって地面を引きずられ、ナダール夫妻も負傷した。
    ハノーバーのゲオルク5世は、この遠来の珍客を手厚くもてなし、フランスへ送り返した。
    ナダールは、顛末を記したダルノー著『巨人号の旅 ― 気球でパリからハノーバーへ』(1863年)で、公へ謝辞を記す。

    スクリュー、あるいはプロペラの発明を目にして、ナダールは、「空気より軽い物体」が飛ぶのか、それとも「空気よりも重い物体」しか飛べないのかの研究に没頭。
    補佐役は、世界初のSF(空想科学)小説作家ジュール・ヴェルヌだった。ヴェルヌは、『気球に乗って五週間(1863年)』(集英社 手塚 訳、1968年)を手始めに、『征服者ロビュール(1886年)』(集英社 手塚 訳、1967年)で、空中戦艦を描いてみせた。
    実際には、ヴェルヌ自身は、1873年に一度きり、短時間の気球飛行を経験している。三枝大修 訳「ジュール・ヴェルヌ『気球に乗って24分』1873年」成城・経済研究第235号(2022年2 月)

    1870年、普仏戦争が起き、ナポレオン3世がスダン(セダン)でプロシャ軍の捕虜となり降伏。国民は納得せず、臨時国防政府の樹立を、国防大臣に就任したレオン・ガンベッタ議員が宣言する。
    各地で戦闘が続く中、プロシャ軍は首都パリを包囲した。セーヌ川の底に引かれた通信ケーブルが切断され、交通だけでなく通信も途絶。
    いち早くナダールは、パリの街灯用石炭ガス(水素)による気球製造工場を建設した。
    気球には、海軍水兵の操縦手と政治家や通信員が乗り組み、パリ発の郵便物と指令、各地からパリへの通信に伝書鳩を持ち込んだ。松井道昭「鳩と気球」おさらぎ選書 第3集、1988年。

    ビクトル・ユゴーの死後出版『Choses vues(見聞録)』では、1870年10月7日の項に、次のように記されている(仏国立図書館 蔵):
    「今朝、クリシー大通りを散歩していると、モンマルトルに通じる道の端に気球が立つのが見えた。そこへ行ってみる。群衆が、モンマルトルの崖に囲まれた大きな広場を取り囲んでいた。広場には、大きい気球が1つ、中くらいのが1つ、小さいのが1つ、合計3つの気球が膨らまされていた。大きいのは黄色、中くらいのは白、小さいのは畝(うね)柄で黄色と赤。
    群衆の中から、「ガンベッタが発つ」という声が聞こえた。実際、私は、黄色い気球そばのグループ中に、大きなオーバーコートを着て、カワウソの帽子をかぶったガンベッタがいるのを見つけた。彼は石畳の上に座り、毛皮の裏地つきのブーツを履いていた。彼は、革のバッグを肩に掛けていた。彼がバッグを外して気球に乗り込むと、若い飛行士がそのバッグをガンベッタの頭上のロープに取り付けた。
    10時半だった。天気はよかった。弱い南風。穏やかな秋の日差し。突然、ガンベッタを含む3人が黄色い気球で上昇。それから白い気球にも3人の乗員がいて、そのうちの1人は三色旗を振っていた。ガンベッタの気球の下には、三色の炎。私たちは叫んだ。共和国万歳!」

    気球を降りたガンベッタは、2日半の旅の末、臨時政府代表団がいるトゥールに到着。
    地方軍を組織し、抗戦を説得して回り、「共和国の巡回セールスマン」と呼ばれた。
    だがパリは包囲に耐えられず、降伏。ヴィルヘルム1世が、ヴェルサイユ宮殿鏡の間でドイツ皇帝即位。

    これに先立ち、1866年6月の 普墺戦争で、ハノーバーはオーストリアと同盟。プロイセン軍が侵攻、ハノーバーを併合した。ゲオルク5世と家族は逃れてオーストリアに。
    普仏戦争後、公はパリで亡くなった。パリ亡命中の公の名刺は、1874年にナダールが撮影した肖像付き。公の死の床の写真も、ナダールによる。

    1900年の万国博覧会でナダールに捧げられた回顧展は、大成功を収めた。
    彼は、1910年3月20日、90歳になる数日前に亡くなるが、前年の7月25日、ルイ・ブレリオが飛行機で初めてドーバー海峡を横断。
    ナダールは自分が正しかったと満足し、「空気よりも重い物の勝利に感謝!」との手紙を、ブレリオに送った。


     


PAGETOP