【寄稿№85】デジャブ(既視感=この道は、いつか)  | 茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

TOP読者投稿コラム一覧>【寄稿№85】デジャブ(既視感=この道は、いつか) 

  • 【寄稿№85】デジャブ(既視感=この道は、いつか) 



    <2025.8.19寄稿>                                            
    寄稿者 たぬきち

    2025年7月30日8時24分(日本時間)、ロシアのカムチャツカ半島東方沖でマグニチュード8.8の大地震が発生して以降、繰返し「デジャブ」に襲われている。
    震源のカムチャツカ半島から北海道に至る海域が図示されるたび、「この道は・・・」と感じてしまう。
    同8月15日(現地時間)、トランプ・プーチン両大統領の会談が、アラスカ州のアンカレッジで開催されると、私のデジャブはいよいよ強まった。

    1983年8月31日、私は、北欧3か国「お礼参り」の旅へ出発。
    デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの権威3先生には、国際郵便だけで、常に最新事情を教えていただき、しかも未だお目にかかってもいなかった。
    東西冷戦末期の当時、北回りの欧州便は、旧ソ連領空を飛ばず、北極圏経由である。
    ウクライナ戦争のため、北回り便が復活しているが、当時は利用する旅客機の性能上、現在のようにノンストップ直行便とは行かず、必ずアラスカのアンカレッジ空港で途中給油のため降機。
    給油中は、機外の待合室で過ごすことができ、そこは大きな空港ビル内の広い空間で、飲食コーナーや免税店が並んでいた。
    日本からの海外旅行ブームも始まっていて、そのためショップの店員さん達は、第二次大戦後の日本占領期に、米軍兵士と結婚して海を渡った「戦争花嫁」と呼ばれた日系女性が中心。
    この時は、窓の外の駐機場に大韓航空機の大きな尾翼が見え、待合室内は、ニューヨークからソウルに戻る韓国人の中年婦人グループで賑わっていた。

    それから7時間ほどの飛行で、デンマークのコペンハーゲン空港に到着。
    私の目的地は、首都があるシェラン島でなく、ユトランド半島の大学町オーフスなので、国内便に乗り継がなくてはならない。
    トランジット通路を早足で歩いていると、頭上のテレビのニュース画面に、大型旅客機の写真と北海道の地図が示されていた。
    実際には、モニター画面上の地図は、アラスカからカムチャツカ半島、そして樺太と北海道までを示していたのだが、私には、出てきたばかりの日本の地図しか目に入らなかった。
    「デンマークで北海道のニュース?」と、意味不明のまま飛行機を乗り継ぎ、オーフスのホテルに宿泊。

    大学の研究室では、教授が、テレビで見たのと同じ、大型機と地図が一面に載った地元新聞を手に、私を待ってくれていた。
    「いや、無事で良かった!」と、KAL-007便の撃墜事件を教えてくれたのだが、記事には、米軍の大型偵察機と間違われた可能性も紹介されていた。
    アンカレッジですれ違った人々の姿が目に浮かんだ。

    米露会談を前にして、トランプ大統領が、「プーチンに会いに、『ロシアへ行く』!」と語り、「アラスカは、もうロシアから購入済み」と、マスコミやSNSで言い間違いを冷笑されたが、これはその前に同大統領が、「グリーンランドを買いたい」と、デンマークに提案したところから始まっている(グリーンランド自治政府代表も、デンマーク首相も拒否)。
    独立時のアメリカは、東海岸の13の英植民地にすぎず、あとは他国から買うか奪取したものである。米大統領が領土を「買い増す」のは、時代は別にして異例ではない。

    アラスカについては、イギリス(フランス、トルコ、サルディニアも)に「クリミア戦争」(1853年10月~1856年3月)で負けるのとほぼ同時期、圧政者ニコライ一世が亡くなった(1855年3月)ロシアは、改革者アレクサンドル二世のもと、これを合衆国政府へ売却した(1867年3月)。
    ベーリング海峡を越えたこのロシア領は、当時の英領カナダに接しており、そのままではイギリスに攻め取られるのは必至と見られていた。
    その後、アラスカでゴールド・ラッシュが起こったのは皮肉だった。

    1667年、カナダのモントリオールに渡ったフランス人のイエズス会士にして探検家のラ・サール(この名も最近、日本で目にしたデジャブが!)は、五大湖を経由してミシシッピ川を南下。1682年、ついにニューオリンズに到達、メキシコ湾(トランプによればアメリカ湾)を目にすることができた。
    彼はフランスの名の下にこれらの広大な地域(現在の合衆国を縦割りにして、中央3分の1)を占領し、ルイ14世に献上して「ルイジアナ」と名付けた。
    パリ6区リュクサンブール公園の続きに、偉大な探検家「マルコ・ポーロとラ・サールの庭」がある。

    その後、アメリカ独立で、ミシシッピ川東岸は米国領に、それからのち、西岸はスペイン領になるが、ナポレオン第一頭領時代、スペインから西岸がフランスに戻ることになった。
    そこでナポレオン・ボナパルトは、この機会に(ジョゼフィーヌの影響もあり=カリブ海マルチニク島の富裕な砂糖農園主の娘)、フランス革命で独立気運が高まったカリブ海のフランス植民地サン・ドマング(セント・ドミンゴ=のちのハイチ)を平定し、カリブ海からニューオリンズを経てモントリオールまで、フランスの勢力圏を拡大しようとした。
    だが、黄熱病とイギリスによる海上封鎖もあって、これを断念。1803年、戻ってくるミシシッピ川西岸は、米国に譲渡することにしたのだった。
    (フロリダやカリフォルニア、そしてテキサスほかにも、それぞれ併合ストーリーがある)

    ロシア人から見て、アレクサンドル二世によるアラスカ割譲に至るクリミア戦争当時のアメリカについて、どのようであったかを語る人物がいた。
    イワン・ゴロビンは、帝政ロシアで大臣を輩出した貴族の家柄出身で、ニコライ一世時代、大学卒業後、外交官を目指し、ゆくゆくは外務大臣、そして首相も夢ではないと、ロシア外務省で入省準備の通訳見習いになった。
    だが、試用期間を過ぎると、ネッセルローデ首相じきじきに、「ペン字が汚いので、まずは習字から始めなさい」と任官拒否。

    プライドを傷つけられたゴロビンは、パリへ出奔(しゅっぽん)。
    帰国命令にも耳を貸さず、パリでフランスの文人や、革命派の亡命ロシア人グループと交際。得意のフランス語で、ニコライ一世の封建的な統治を批判する著述を出版。
    本国からは、貴族の称号と官職の剥奪や領地・財産の没収、ひいてはシベリア送りの有罪判決を受ける。
    彼自身は革命でなく改革派であったため、歴史に名を残すことはなかったが、ロシアとの関係を気にするパリ警視庁から出国を命じられ、欧州各国を巡った後、イギリス貴族のつてをたどり、英国籍を取得。
    「ロシア系イギリス人にして、フランスの作家」として、アメリカへ渡る。
    北はカナダから南はニューオリンズ、そしてカリブ海諸国の風物まで、アメリカの雑誌へ次々に欧州の知人達へ宛てた英文手紙形式の文章を発表(米国議会図書館)。

    *ニューオリンズ1846年5月、パリのウジェーヌ・シャピュイ氏へ
    「ルイジアナは失われたのではなく、売却されました。ルイ14世の獲得は、ナポレオン一世によって守られることはありませんでした。しかし、偉大な王の名は、セントルイスの町に残っています」。
    *モントリオール1855年8月、リバプールのダンカン卿マクデュガル殿へ
    「合衆国はイギリスから一人当たりわずか1ポンドしか商品を輸入していませんが、カナダの輸入率はその2倍以上です。これは、アメリカで広く行われているフランスやドイツ製品の輸入によって十分に補われています。カナダの輸入関税は一律30%なので、タバコ、紅茶、ワインなどはロンドンよりも安いはずです」。
    「ナイアガラ砦(とりで)からトロントまでの航海は通常2時間半ですが、私たちの場合は3時間半かかりました」。「トロントは『カナダのロンドン』を自称しています」。「ヤンキーたちにロシア人だからカナダには行かないようにと言われたにもかかわらず、私はサウザンド諸島を見たいという誘惑に抵抗できませんでした」。
    *ニューヨーク1855年11月、ヴィクトル・ユゴー殿
    「あなたがジャージー島から追放されたと耳にいたしました。しかし、ここにはニュー・ジャージーがあります。あなたの来訪を誇りに思うことでしょう」。
    *ニューヨーク1856年2月、ダニエル・スターン夫人へ
    (マリー・ダグー伯爵夫人は、筆名ダニエル・スターン。ジョルジュ・サンドにショパンを引き合わせた)
    「奥様、最後にお会いしてから何年も経ちました。女性は、ここでは『君臨すれども統治せず』です」。
    *ハバナ1856年4月、ニューヨークのカップ神父宛
    「『インペリアル・シティ』(ニューヨークのこと)の雪と泥は、3フィートから8フィートの高さまで積もり、春の初めには瘴気を発生させました。私は猛烈な高熱に襲われ、それを治すためキューバへ行こうと決意しました。しかし、上陸して間もなく、数週間前からハバナで黄熱病が発生していると聞きました」。
    「一杯のコーディアル・ジンは、ヤンキー・ティーよりも私に良い効果をもたらし、最初の南の太陽光が私の健康を回復させました。
    ニューヨークからハバナまでの距離は、ボストンからリバプールまでの半分より少し短いので、5日間はそれほど長くはありません。しかし、60ドルという料金はやや高すぎです。ニューオリンズまでは同額で、ニューオリンズへは2日遠いのですから。船長によると、この差額はハバナ港への入港料として船1隻につき300ピアストルという高額な通行料がかかるためだそうです。
    スペイン金貨を持っていくようにと、私は非常に悪いアドバイスを受けました。私が支払った1 オンス(17ドル35セント)は、ここでは17ドルの価値しかなく、お釣りは6パーセントの損失なしではもらえません」。
    *ロンドン1856年7月、ニューヨークのケトル氏(エコノミスト誌編集長)へ
    「クラレンドン卿(英外相)自身も、アレクサンドル二世に失望したと語っています。帝の大臣たちは、彼の温厚な気質の功績を台無しにしているのです」。

    彼は、モントリオールからニューオリンズまでのラ・サールを超える経験をしたが、その後アラスカを手放したアレクサンドル二世を非難していない。
    むしろ新帝に期待し、ロシアへの帰国を求める嘆願書を提出。1859年、帝に好意的な『善意帝アレクサンドル』(仏国立図書館)を出版したものの、帰国条件をめぐるロシア当局との書面のやり取りばかりで、1890年6月パリで死去。

    極東カムチャツカ半島沖を震源とする大地震の影響は、戦略原子力潜水艦の基地がある半島南東部の閉鎖都市ビリュチンスクにも及んだ。
    震源地付近の地図を見て、デジャブの原因に気づく。
    冷戦時代からのビリュチンスク秘密基地は、半島の中心都市ペトロパブロフスク・カムチャツキーの南西約20キロに位置している。
    大韓航空機は、ペトロパブロフスク・カムチャツキーの北約20キロあたりを通過したのだが、アンカレッジからまっすぐにこの基地方向を目指したように見えてしまう。
    撃墜事件後、米CIAがいち早く公表したKAL-007便の飛行経路を示す地図と、このたびの地震の震源を示す地図は、まったく同じ。
    同機は、飛行開始から約10分で計画コースを逸脱。国際民間航空機関(ICAO)の報告書にも、その理由は記載されていない。

    クリミア戦争は、クリミアだけでなく極東でも戦われた。ペトロパブロフスク・カムチャツキーでは、1854年9月1日と5日、ロシア軍は、海兵隊を乗せた仏英連合艦隊による2回の攻撃を撃退した。
    とはいえ、連合軍がより強力な戦隊を集めて再来することは明らかだった。港の防御を強化する手段はなく、ロシア軍司令官は、みずから町と要塞を破壊し、フリゲート艦オーロラほかの艦船に資材を積み込み、1855年5月、迫る英仏艦隊の目の前をシベリア側へ逃れた。
    アラスカを割譲しなければどうなるかを、この時、ロシア政府は認識したのだった。


     


PAGETOP