【寄稿№94】「オプダッハローゼ」というドイツ語 | 茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 【寄稿№94】「オプダッハローゼ」というドイツ語




    <2026.7.6寄稿>                                            
    寄稿者 たぬきち

    いまドイツで評判の警察ミステリを読む。昔のエド・マクベインの『87分署シリーズ』を思わせる。いきなりドイツ・シリーズの(日本で入手可能な)最新刊から読み始めたのだが、面白い。翻訳出版したいと思うものの、今の日本では、ドイツ向けに翻訳権料を払ってまで応じてくれる出版社を見つけることは難しい。AI翻訳の登場も、プロの翻訳家(私はそうではない)の仕事を軽んじる原因となっている。

    「87分署シリーズ」の『稲妻』(井上一夫 訳 ハヤカワ文庫1992年)の解説で、作家の東 理夫(ひがし みちお)氏は、「ミステリを読みたくなる大きな理由のひとつは、そこに描かれている町と人に逢いたくなるからだ」という。
    かつて私が暮らした町、私が学んだ町が舞台だ。その土地独特の日常用語の言い回しの数々も懐かしい。だがそのことよりも、冒頭からいきなり「オプダッハローゼ」という言葉が目にとびこんできた。「オプダッハ」は住む家、「ローゼ」は英語の「レス」。つまり路上生活者を指す。とっくに差別語として禁止されていると思っていたのだが、ドイツではそうではないらしい。そして私にとって、「オプダッハローゼ」は「オプダッハローゼ」であって、「路上生活者」でも「ホームレス」でもない。その理由を語ろう。

    大学院の恩師の推薦で他大学の助手に採用された私は、講義負担がない研究助手のうちに博士論文を書きたいと思っていた。ところが母校の指導教授は急逝された。そのため、恩師と親交のあったドイツ(当時は西ドイツ)の教授に手紙を書き、「もはや推薦状がないのですが」と留学希望を伝えたところ、快く引き受けてくださる旨の返信を得た。ドイツ政府の財団の奨学金付き。それならドイツで博士号を取ろうと、留学前から少しずつドイツ語論文の原稿を書き始める。

    ドイツでは、手始めに奨学財団が指定する地方都市での全寮制の2か月語学コースに編入された。入学してみると、日本からは企業や役所、大学から派遣された社会人留学生が中心であるのに対して、外国人は当時「ガストアルバイター(客員労働者)」と呼ばれた人々の子弟が中心だった。つまり、移民の子供たち。当時のドイツ人に言わせると、「家族を呼び寄せたいというので許可したところ、家族の数は20人とか30人だと」という時代だった。

    2か月講習の修了記念に、日本人留学生たちと、それに加えて親しくなった南の国からの中年医師と同じ出身の若者たちのリーダー役と一緒に、レンタカーを連ねてベルリン観光に出かけた。アウトバーンを通ってベルリンに入る際、検問所にはベルリンを去る車の列があった。沿道は高圧電流付きの有刺鉄線で高く囲われており、まるでSFに出てくるような全身ゴム服姿の東ドイツ人がそれを修理している異様な光景。小銃を肩にした東ドイツの兵士たちが、長方形の鏡を斜めに据え付けた台車を引き、出て行く車の下に人が隠れていないか点検している。
    普段は物静かな南の医師が、後部座席で奇声を上げ、足元のバッグからカメラを取り出し兵士らに向けようとする。緊張のあまりの異常行動だった。「見つかったら東の刑務所行きどころか、銃撃されるぞ!」と、若者リーダーが医師を抑え込む。

    もう当時の西ドイツでは、「東はもうじき崩壊する」と囁かれていた。けれどもこの経験から私は、絶対にそれはないと思ったのだった。「現地を見ずに正しい判断はできない」と言われるが、現地を見たためかえって判断を誤ることもある。
    こうして南の医師は、ドイツ医学研究を断念し、中途帰国してしまう。「この国は寒すぎて暮らせない」と、最後に言い残した。

    大学で博士号を取りたい私は、正式に学籍登録をし、さらにドイツ語もと、大学の外国人向け語学コースにも出席した。教室では、他に日本人はおらず、以前の南の国々からの若者たちが中心だった。
    私よりも年上のドイツ人男性の語学教師がやってきて、教科書は使わずに講義する。いきなりボードにチョークで「オプダッハローゼ」と書き、「今から言うことをノートに書きとるように」と言う:「きみたちは、たとえドイツに入国できたとしても、『オプダッハローゼ』にしかなれない」;「そして、男の『オプダッハローゼ』は物乞いしかできず、女の『オプダッハローゼ』は売春しかできない」のだと。

    「ああ、この人は大学講師としてとても不幸だと自認する境遇なのだ」と、私は感じた。本来であれば、ドイツ語学かドイツ文学の講師としてドイツ人学生を相手に講義していたいのに、外国人子弟向けの仕事をさせられ、不満をぶちまける。
    これが、私が「オプダッハローゼ」という言葉を覚えたきっかけだった。
    若者リーダー君は、大学の語学教室で私を見つけ、「やあ、おまえもここにいたのか、俺は医学部に入ったよ」と言った。だが「オプダッハローゼ」の言葉以降、彼の姿を見ずに終わった。

    当時の私は、欧州共同体(EUの前身のEC)はいずれヨーロッパ全域に拡大するものと予測し、日本にいた時から、これらの国々が私の専門領域でどれぐらい同じ考え方をしているのかを見ようとしていた。
    そのため、英独仏語から始めてイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、そしてオランダ語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語で専門書を読めるようになっていた。
    ドイツでは、近所のドイツ人のおじさんから、「おまえの読める言葉では、日本語が一番もうかるぞ。日本の企業がたくさんドイツに進出していて、日本語の看板でも書けば…」と言われた。

    当時のドイツの冬は寒く、私のドイツ人の指導教授は代々数百年続く裕福な商人の家柄で、公園のように広い庭のある邸宅の凍った芝生の上で転倒し、脳内出血で急逝された。
    その後は、ドイツ政府の研究所の教授が指導を引き受けてくれ、帰国間近の際にこのままドイツに残って研究所の研究員になれるよう推薦しようと勧められたが、私は、「寒いので帰ります」と答えてしまった(最近のドイツは暑いというので、自分の判断にさらに自信を失う)。
    日本で助教授になった頃、やっとドイツ語論文が完成し、すでに研究所を離れ他大学に移籍していた教授の推薦で、ドイツでの査読を経て専門誌に掲載され、ドイツの専門書にも引用されたが、それでドイツでの博士号取得に結び付くわけではなかった。
    「オプダッハローゼ」の言葉をめぐり、現在のドイツでは、この用語は客観的なものだから差別的でなく、その属性の人々への偏見や反感こそが克服されねばならないという。

    謝辞:オフィスと住居を社会へ提供する齋藤社長のお仕事には、尊いものがあると思います。

     


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