思うところ186.「令和7年の謹賀新年」 | 茅場町・八丁堀の賃貸事務所・賃貸オフィスのことならオフィスランディック株式会社

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  • 思うところ186.「令和7年の謹賀新年」




    <2025.1.2記>
    謹賀新年。本コラムを書き始めた平成29年から数えれば8回目の、当社の設立(平成22年)から数えれば15回目の、私が社会人となった昭和63年を起算に数えれば37回目の賀詞を述べることになる。それは不動産業に従事すること37年目ということでもある。

    37年前の春、私が就職して最初に配属されたのは法人相手の不動産仲介部門(法人営業部)だった。同期入社の大半が個人相手のリテール部門(流通営業部)に配属される中、大型案件の取扱い強化を目的に新設されたものの、営業ノウハウや集客システムが確立されておらず全てが手探り段階のその部署に私は配属された。何せ私がその法人営業部の新卒採用第1号であったくらいだから「老人営業部」と揶揄される程に他部門と比較して平均年齢が高かった。それでも本社所属の者だけが持つシンプルなれども財閥系のロゴがエンボス加工された格式あるデザインの名刺を支給され、新宿副都心の有名な超高層ビルに通勤できるとあって自尊心が擽られたのを覚えている。私がその部署に配属された決め手が何であったかは知る由もない。配属されたその日、先輩風を吹かす女性事務職二人(所謂「お局系」)に「新米のくせに」と言われたので「では、Aさんは古米、Bさんは古古米ということですね。」と和やかに切り返したら居合わせた上司は怖い物知らずの新人の物言いに唖然としていた。しばらくの間、その舌禍事件(≒武勇伝)は「古古米事件」と称されて、オジ達(おじさん達)の宴を盛り上げる格好の酒の肴となった。(笑)

    初めて取得した媒介契約書(売却を任せたことの確証)は千代田区神田富山町の古ビル(敷地20坪程度)だった。終業間際だったとはいえ、せっかく相談者から本社に電話連絡を頂いたにも拘らず、(年の瀬の)当日夜8時過ぎに来てくれと一方的に言われたというだけで「どうせくだらない話だろう」と誰も腰を上げようとしない。その日の夜に予定していた麻雀の約束の方が大切で皆が気も漫ろだったからだ。昭和の末期から平成の初期まではバブル絶頂期の余韻が残るそういう浮かれた時代だった。だが、偶々最初に電話を取った新人にとっては千載一遇とも言うべき単独行動の好機に他ならず、その夜訪(=夜間訪問)の任務を志願?いや、志願というよりも「これは仕事になる」という直感が働き、「即行動すべし!」との正論を盾に半ば強引に上司を説き伏せて僅かばかりの資料を手に現地に向かった。(日頃の夥しい数の情報整理と現地調査の日々で既に相場観には自信を持っていた。)深夜誰も居ない事務所に私が意気揚々と持ち帰った媒介契約書は10億円超、その土地(大方の予想に反して抵当権等の付着権利皆無≒無借金状態)は当時の国土法届出義務(当時の都心部は100㎡以上の土地取引が国土法届出義務のある監視区域)に絶妙に抵触しない希少性のある一等地(大通りに面する整形地)だったこともあり、ほぼ満額で都心の高額不動産の取扱いを得意とする不動産会社が買ってくれた。高額かつ両手仲介の成約であった為、その一案件のみを以て手数料は5千万円を超え、早期好条件の成約見込みに気を良くした売主は年が明けると買主に転じて住替先となる高額マンションの仲介も私に任せてくれた。これを機に「若い人に大型案件の取り纏めは無理」という定説を私は悉く覆して年配者を圧倒する実績を積み上げていくことになる。(会社員時代、私が取り扱った1件当たりの物件最高額は22億円、それは所謂「片手仲介」だったから1件当たりの手数料最高額は12億円の所謂「両手仲介」が成立した時の7千6百万円、年間仲介手数料は最高約1.6億円に達したと記憶している。)

    フルーク気味の一連の契約を野球に喩えるならば、プロの投手相手に初打席の中学生がいきなり代打逆転満塁ホームランを放ち、買換案件についてはその直後に涼しい顔して二塁打まで打ったようなものだった。だから事の顛末は暗黙裏に伏せられた。私が当時の責任者の立場だったとしても、新人に高額物件の媒介交渉を一任する出鱈目な差配の結果、図らずも5千万円超の手数料を稼いでしまったとは口が裂けても部外に漏らすことはできなかったと思う。それもまた前回のコラム(№185)に続く(当時の誰かにとっては、)不都合な真実の一つである。同期が久々に集まった飲み会で5千万円の物件を決めたと自慢する者がいて「お前はどうよ?」と聞かれたので、「少なくとも5千万円はやったよ!」と角が立たぬよう煙に巻いて答えたところ、「(大型案件をやる部署のくせに)大したことないなぁ」と茶化すから、「仲介手数料(1件)が、だよ。」と口を滑らしたところ、意味が分からず目を白黒させていた。

    本社所属部門は固定給だったが、実にがむしゃらに働いたものだ。とは言っても、やり甲斐を感じて自発的に為したものであって時間的にも肉体的にも許容範囲であったし、周りの人が言う程のワーカーホリック(仕事中毒)でもなかった。難案件にも喜々として取り組み己の経験知(知的財産)へと転換(スキルUP)していっただけである。それが次の大型案件に繋がる好循環を生むことになる。当時の不動産業界は情報公開システムが未発達で個の力が強く、サッカーで得点力に優れたストライカーに自然とボールが集まるように実績が実績を生む世界だった。また、成果至上主義の渦中にあっては実績こそが最強の鎧(防御)となり、誰に対しても臆せず物申すことができる立場にあったが同時に軋轢を回避すべく礼も尽くした。周りも私との年齢差が大きかったこともあってフロンティア&チャレンジ精神に由来するユニークな言動を面白がっていたからとても居心地の良い職場だった。同期入社の者から漏れ伝わる軍隊のような他部署の職場環境とは明らかに異なり、成果が伴う限り新人の自由な行動が許される恵まれた特殊な環境下(自由放任?)で私は社会人のスタートを切ったのである。入社3年目あたりから上司を飛び越えて会社トップからの直接(極秘)指令を受けることも多くなった。

    今も昔も顧客第一主義を貫き、信義誠実を重んじ、時として自己犠牲を厭わない私の働き方を「古い!」と言う人が多いがとても心外である。若かりし頃も私は働き方改革に人一倍熱心であった。部署の恒例行事として年末は仕事納めの挨拶廻り、年明けには仕事始めの挨拶廻り。その間の年末年始休暇を勘案すれば年間2ヶ月も挨拶ばかりではないかと冷ややかに見ていた。その様な商慣習を全否定まではしないが日本国が国際競争で遅れを取るようになってしまった昨今、それを「古き良き時代の」とは思わない。ただ、不動産業に製造業と同じような働き方を当て嵌めようとする今の風潮にはやや違和感を覚える。休日を増やすことや時短ばかりが働き方改革ではない。効率良く仕事して生産性を高めることこそが大切なのであって業種ごとに働き方は異なって然るべきである。地域特性、商品特性、ターゲット層(顧客層)等で同じ業界、同じ会社、時には同じ部署であっても働き方は異なる方が自然ではないだろうか。

    令和7年の仕事始めにあたり、初心に帰らんと欲し、書き初めに代えてコラム欄に筆を執る気持ちでパソコンに向かい、若かりし頃の年末年始を振り返ってみた。


このコラム欄の筆者

齋藤 裕 (昭和39年9月生まれ 静岡県出身)

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